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飛虎隊伝説 (4)

2010/08/24 22:21

前回は、

 

 

「フライング・タイガース(以下、飛虎隊と略)」とは、蒋介石軍(支那軍)の空軍顧問だった米軍佐官・クレア・リー・シェノールト(支那名は陳納徳、日本では一般にシェンノートと書かれる事が多い)が、蒋介石夫人・宋美麗の資金提供を受け、米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊「アメリカン・ヴォランティア・グループ(American Volunteer Group:略称「AVG」)の事です。

 

 

…という話の実際、米軍「佐官」の(実際には「大尉」で退役しているので佐官であったことはないのだが)クレア・リー・シェノールトが、「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名を」彼の「傭兵戦闘部隊」に確保するに際して直面した、「思い通りにならぬ」現実について書いた。

 

 

アラン・アームストロング(『「幻」の日本爆撃計画』)は、その募集の様子をテックス・ヒルの証言に基き、

 

 

 一九四一年三月、パイロットのテックス・ヒルとエド・レクターは、バージニア州ノーフォークの海軍航空隊の駐機場を離れる途中、CAMCOのリクルート担当者に話しかけられた。ビルマ・ルートを守るために戦闘機のパイロットをやってみないか、ということだった。ヒルは、ビルマがどこにあるかさえ知らないと応えた。話し合いは飛行場の管制室で行われた。中国を守るために戦闘機を操縦することが意味する精神と冒険を納得したヒルとレクターは、海軍に入隊する前は新聞社のイラストレーターだったバート・クリストマンと共に、海軍将校を辞めてCAMCOに入社する意思を記した文書に署名した。だが三人とも、実際には中国のために戦闘機を操縦し、戦うという理由で除隊が認められるとは思っていなかった。

 だが、1カ月後、再びCAMCOの代表から話があり、三人は書類がパスしたと告げられたのだった。ある基地の司令官は、海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだが、本件はすべて「大統領の承認を得ている」と海軍航空局局長のタワーズ提督にはねつけられた。

 

 

…と記している。ここには、募集に応じたパイロット当人たちが、リクルート担当者の話を、それほどリアルなものと考えていなかった様子が窺える。

「海軍の航空隊の一つから熟練パイロットが奪われたことに抗議するためにワシントンに飛んだ」という「ある基地の司令官」のエピソードは、熟練パイロットの確保を優先課題と考えるようになった、1941年当時の現場の雰囲気を伝えるものであろう。同時に、大統領の意向が、現場まで貫徹していなかった事実を物語るエピソードでもある。

CAMCOは、中国政府に代わり(あるいは米国政府に代わり?)、パイロット達の雇用主となった企業である。アームストロングの著書には「傭兵戦闘部隊」の設立に際して大きな役割を果たした企業として、インターコンチネント・コーポレーションとCAMCOの名が挙げられているが、残念ながら、両社の関係・内実に関しての記述に一貫性はない(ので、ここでは詳述しない)。

 

また、他の著作からのアームストロングの引用によれば、陸軍航空隊のチャーリー・ボンドは「戦闘機の操縦訓練を受けてきた自分がカナダに爆撃機を自力空輸する任務しか与えられないのは時間の浪費だからという理由で」、海兵隊中尉グレゴリー・ボイントンは「借金の清算」が可能となる「報酬が魅力的だった」という理由で、クレア・リー・シェノールトの創設した傭兵戦闘部隊に参加していたのだという。

 

アラン・アームストロングは、

 

 

 シェノールトの仲間達は、日本軍に包囲された中国人のために戦うことがいかに魅力にあふれ、冒険心を掻き立てらるかという点をほのめかし、アメリカ義勇兵部隊が第一次世界大戦中に活躍したアメリカの外人部隊(”ラファイエット・エスカドリル”)に匹敵する部分を持ち出すことによって、特別航空戦隊の任務に就くパイロット、整備士、技術者の採用に成功した。……。シェノールトの下に馳せ参じた義勇兵たちは、ふつうの男たちではなかった。冒険家、ロマンチスト、根っからの傭兵気質の持ち主、理想主義者などからなるこれらの男たちの集団は、中国の厳しい戦闘環境を生き延びるために厳格な現場監督を必要とすることになった。

 

 

…という文章で、その話題を締めくくっている。

要するに、「一癖も二癖もあったならず者」の内実は、多様な動機に支えられた多様なタイプの男たちなのであった。

 

 

 

最後に、カール・モールズワース『太平洋戦線のP−40ウォーホークエース』(大日本絵画 2002)の記述から、ここまでの流れの全体を復習しておこう。

 

 

 計画は単純だった。米国の近代的な戦闘機とパイロット、それを飛ばし続けるための整備技術者を確保すれば、蒋介石は即席空軍を得られるわけである。しかし、欧州での戦争は連合国にとって不利で、辺鄙なアジアでの戦争に回せる飛行機はなかった。

 米産業界は、軍備強化にかかった米軍のために、夜を日に次いで軍需物資を生産していたが、法的に米国は、まだ中立ということになっていた。こんな事情に加えて、シェンノートと宋は、もうひとつ別の障害に直面していた。当時、日本帝国と合衆国の間には諍があり、ワシントンの政治家たちは事態をさらに悪化させるようなことを厭っていたのである。にもかかわらず、その年(1940年)の暮までにシェンノートと宋は、難関を打ち破った。

 合衆国と中国との取引によって、蒋介石は欲していた物のすべてを手に入れたわけではなかったが、ビルマ公路を日本軍の空襲から護るために不可欠であった戦闘機100機は入手でき、打ちのめされた中国に対する最後の補給線は確保された。米国の義勇軍パイロットと、地上勤務者は、軍務から離れることを許可され、1年間、中国で戦うという契約に署名することになる。乗機は、米陸軍戦闘機隊に多数配備されているP−40の輸出型である「トマホーク」になるだろう。シェンノートは同部隊の指揮官となり、同部隊は米義勇部隊と呼ばれるようになった。

 米義勇航空群の新兵たちは合衆国中の陸軍、海軍、海兵隊の飛行場から舞い上がり、志願書類に署名した。その間、海路、トマホークをビルマのラングーンへ運ぶ算段が為され、機体はそこで組み立てられることになった。1941年7月、米義勇航空群の空中、地上勤務者たちは英空軍がビルマの密林の奥深く、ラングーンからシッタン河を240卅未辰織肇鵐亜爾坊設した基地で訓練をはじめた。日本が12月のはじめに真珠湾を攻撃するまでに、米義勇航空群はシェンノート直伝の対敵戦術に熟達していた。

 日米開戦の直後、シェンノートはビルマ公路防衛のため、彼の部隊を公路の両端に分割配備した。かれは1個飛行隊を、大港湾都市であるラングーンを基地としていた英空軍のもとに置き、残り2個飛行隊は仏印の日本軍航空部隊基地からの攻撃圏内にあった昆明に配置した。

 

 

 

 

 




Binder: 現代史のトラウマ(日記数:665/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2010/08/24 23:27
    次回には、スペインのフランコの義勇兵と、
    中国の蒋介石の義勇兵をめぐるお話を…と思っているのだが。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2015/09/20 10:06
     
    加筆修正の上、ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてアップ。


     飛虎隊伝説 (2)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-b7de.html

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2015/09/21 22:11
    《タイトルを変更した》

     飛虎隊伝説 (2)

       ↓

     飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 2

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