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飛虎隊伝説 (7)

2010/08/27 22:19

今や米陸軍の将軍となったシェンノート(シェノールト)から、

 

 

「1943年10月23日から12月15日までのあいだ、ウルバノヴィッチュ少佐は在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加し、空中戦において賞賛すべき業績をあげた。この期間中、少佐は戦闘機操縦士として低空地上攻撃、爆撃、および空中護衛任務に約34時間飛行した。大部分は洞庭湖地域で日本軍に圧迫された中国軍地上部隊を空から支援するための任務であった。1943年12月11日、少佐は基地へ戻る途中の日本軍機編隊に対する攻撃に参加し、続いて起きた空戦で敵戦闘機2機を撃墜した。軍務全期間を通じて、少佐は敵をものともせぬ勇気と優れた戦闘技術を発揮した。その戦いぶりは少佐自身のみならず、ポーランド軍、またアメリカ軍の名誉の記録となるものであった」

 

 

…という勲記と共に、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐に航空殊勲賞が授与されたのは、1944年1月11日のことであった(前回の話)。

 

ここでは、ポーランド人ウルバノヴィッチュの経歴を概観しておこう。ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)の記述を要約すると、

 

 1908年 北東ポーランドで生まれる。

 1930年 デンブリンのポーランド空軍士官学校入校。

 1932年 観測兵少尉として任官。第1飛行連隊夜間爆撃中隊に配属。

 1933年 飛行訓練を志願し卒業。第111および第113飛行隊勤務の後、デンブリンの教官となる。

 1939年 デンブリンで第14期クラスの生徒監を勤める。9月にドイツがポーランドに侵攻。生徒の士官候補生を連れてルーマニアに脱出。その後マルセイユに到着。

 1940年 フランス陥落と共に英国に渡り、8月に英国空軍第601飛行隊、そして第145飛行隊に配属される。9月7日、第303飛行隊指揮官となる。「英本土航空戦(バトル・オブ・ブリテン)」で、15機を撃墜。

 1941年 ノーソルト航空団を組織し、指揮官となる。6月に渡米し、PAF(ポーランド空軍)の宣伝ツアーに携わる。

 1942年 6月にポーランド大使館付空軍武官補佐官に任命されるが退屈し、中国での軍務に志願する。

 1943年 10月23日〜12月15日、在中国米陸軍航空隊で作戦に参加。

 1944年 ワシントンのポーランド大使館付空軍武官となる。

 1945年 7月、英空軍より「永久休暇」の待遇を受ける。その後ポーランドに帰国するが、共産主義者により誤認逮捕され、米国移住を決意し、米航空宇宙産業の一員となる。

 ポーランドの共産主義体制崩壊後は、度々ポーランドを訪れ、1995年には大将の位を贈られる。翌年に死去する。

 

…という生涯であった。

同じPAFで闘い、ポーランドへ戻ったスタニスワフ・スカルスキ少佐は戦後、

 

 

 対独戦終了後、スカルスキは英空軍から高い地位を提示されたが、ポーランドがすでにソ連の支配下に入っていたにもかかわらず、祖国に帰ることを選んだ。まず初めは、共産党員が支配するポーランド空軍に勤務した。

 だが「冷戦」が最高潮に達したとき、スカルスキは逮捕され、「アメリカとイギリスの帝国主義者」のためにスパイを働いたとして告発された。同じことが西側から帰国した戦中のPAF操縦士の多くの身の上にも起こった。その後スカルスキは、残酷さではゲシュタポやNKVD(ソ連内務人民委員部)のそれに匹敵するほどの恐るべき「査問」を受けた。この非人道的な扱いからは幸い生き残ったものの、最低に馬鹿げた告発のあと、彼は死刑を宣告された。結局、共産主義者たちは「慈悲をもって」終身刑に判決を変更する。1953年にスターリンが死ぬと、ポーランドでも事態はゆっくりと変わりはじめ、1956年、スカルスキは8年の獄中生活ののち釈放された。

 

 

…という運命を辿る。その後は空軍に復帰し、准将の地位まで昇進することになったが、これはむしろ「幸運」と呼ぶべき事柄であろう。祖国ポーランドのために勇敢に闘った戦闘機パイロット達に、祖国の共産主義者が用意したのは、「ゲシュタポやNKVDのそれに匹敵する」ような「最低に馬鹿げた」取り扱いなのであった。ヒトラーとの「大戦」は終了し、世界は「冷戦」と呼ばれる新たな戦争の時代に入ってしまっていたのである。

 

 

第二次世界大戦ではナチス・ドイツに翻弄され(実際には、ドイツがポーランドの西部から侵攻すると同時にポーランド東部を占領したのはソ連であったのだが)、戦後はソ連の共産主義者に翻弄されたのが、ポーランド人にとっての現代史なのであった。

 

 

 

 

振り返ってみれば、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだエイジャックス・ボームラーの側で共にフランコの軍隊と戦っていたのは、人民戦線政府を支援するソ連からの義勇兵であった。人民戦線が相手としていたのは、フランコの軍隊であると同時に、フランコを援助するためにスペインに送られていたドイツとイタリアからの義勇兵部隊でもあった。

そして中国大陸では、1941年に米国からの義勇兵部隊が中国国民政府を援助するために結成され、それまで日本軍と戦う国民政府を支援していたソ連からの義勇兵部隊を継ぐこととなる。

1937年、盧溝橋事件当時、蒋介石国民政府の強力な軍事顧問団がドイツ人によって構成されていたのも歴史的事実であり、その年に蒋介石の空軍の軍事顧問に就いたのがシェンノートだったのである。

現代史は単純ではない。

 

 

 

 

 




Binder: 現代史のトラウマ(日記数:665/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2010/08/28 00:01
    単細胞なネトウヨ流の単純史観では、この面白さ(?)は味わえない。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2010/08/28 00:17
       ↑
    実際、当時の内閣が、

       欧州情勢は複雑怪奇

    …という言葉と共にポシャっちゃうのが我らが祖国の歴史。

    どうも、外交のリアリズムは身につかないものなのかなぁ…

  • Comment : 3
    Mr.Dark
    Mr.Darkさん
     2010/08/28 01:00
    なるほど。
    反共産党のヒトラーにとっては、中国国民党は、敵の敵。
    しかし、日本政府も反共だったはずなのに‥?

    (複雑怪奇にしてしまったのは日本側の行動?)

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2010/08/28 10:41
    Mr.Dark 様


    >なるほど。
    >反共産党のヒトラーにとっては、中国国民党は、敵の敵。
    >しかし、日本政府も反共だったはずなのに‥?

    これは、話せば長くなる話で…

    ヒトラー以前から、中独の関係は深かったのですよ。
    中国の資源は、ドイツの軍需産業にとっても重要だったりして。
    だから、日独防共協定には、国防軍主流、外務省、産業界は反対。
    それをリッベントロップと国防軍防諜部長のカナリスが押し切った。
    (しかし、このカナリスの防諜部は、その後の反ヒトラー陰謀の中心となる)
    ……
    …………と、長い話になってしまうのでした。

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2015/09/21 16:02
    加筆修正の上、ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてアップ。


     飛虎隊伝説 (3)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-c531.html

  • Comment : 6
    umasica :桜里
     2015/09/21 22:14
    《タイトルを変更した》

     飛虎隊伝説 (3)

       ↓

     飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 3

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