umasica :桜里さんのマイページ

会田雄次 『アーロン収容所』を読む (1) リライト

2011/02/16 19:36

 

 二十一年の初秋ごろだったか、雨季あけの心地よい季節であるのに、私たちの隊は特に憂鬱だった。じつに嫌な仕事が廻ってきたのである。兵隊たちの言葉でいえば隠亡(おんぼ)作業、つまり英軍墓地の整理である。

 終戦前後からそのころまで続々戦傷戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。それが不規則で乱雑だったので、整頓することになったのであろう。

 私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所へ移す仕事である。…

 …

 ほとんどの死体は腐乱最中である。…

 この作業のとき、私は奇妙な一群を見た。インド兵のような服装をした日本兵の集団で、私たちと同じ作業をしている。なぜか私たちを避けている。ものも言わない。やがて私たちは気がついた。戦時中の捕虜、投降者たちである。それは、捕虜(キャプチュアード)、または戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)、(戦犯者クライムドではない)として私たち降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)から区別され、チャンギーの監獄に収容されている人々であった。

 私は、行き会った一人に「やあ」と声をかけてみた。顔をそむけて応答をしてくれなかった。

「話しようと思っても物を言ってくれないな。気の毒だから無理に話しかけることはしないけれど、ひどくひがんでいる」

と小隊長は言った。日本軍の教育はおそろしい。「捕虜」たちは、戦争が終わったその時でも、私たちが軽蔑の目で見ているとうたがい、全身でそれに反發している。しかも自分を恥じている。私たちは、自分たちを立派だとは思っていない。ことにろくろく戦闘もしなかった私など威張れるわけがない。しかし、こういう人たちを目の前にすると正直なところ、おれは投降はしなかったという気分がわき、優越者みたいな気になるのを抑えきれなかった。

 しかし、とうとう一人の人と話すようになった。関東の人で、名も所属も言わない。歯切れのよい東京弁で率直な感じである。

「私はミッチーナで重傷を負い、倒れていて英軍に収容されました。意識を失っていて収容されたのです。でも、それはどうでもよいのです。私たちは帰れないかもしれません。ですから、この話だけはしておきたい。日本の人に知らせて下さい」

「英軍はひどいことをします。私たちは、イラワジ河のずっと河下の方に一時いました。その中洲に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうかは知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。ああ、やはりあなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこには”毛ガニ”がたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。あの中洲は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。みんな生まのままで食べました。英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも危険なことは知っていたでしょう。でも食べないではいられなかったのです。そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中にうつぶして死ぬ、あの例の死に方です。監視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。全部死んだのを見とどけて、『日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である』と上司に報告したそうです。何もかも英軍の計画どおりにいったというわけですね」

     会田雄次 『アーロン収容所』 中公文庫 1962 66〜67頁

 

 

 

…というのは、英軍による捕虜虐待例として(特にネット上で「拡散」され)有名になった話である。



 確かにひどい話なのだが、会田雄次の文章は、次のように続いてもいる。

 

  とにかく英軍は、殴ったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる残虐行為はほとんどしなかったようだ。…

 

 ここで「殴ったり蹴ったり」、あるいは「滅多切りというような、いわゆる残虐行為」として比較対象となっているのは、日本軍による所業(会田雄次にとって、「蹴ったり殴ったり」は日本軍の行為として自明の前提だ)である。そのことは忘れない方がよいだろう(註1)。

 
 

 会田雄次自身は、「終戦後」に降伏したので(当人の言葉によれば)「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」と呼ばれるカテゴリーに属していた(これは国際法上の「捕虜(俘虜)」とは異なる取り扱いとなるが、日本軍側も同意していたようである)。ここではカテゴリー間の相違の詳細は述べないが(註)、会田に話をした「関東の人」は「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」に分類され、これは国際法上の「捕虜」という扱いになる。イラワジ河の中洲に「収容」され、「衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを捕食し、疫病にかかって全滅した」のは「戦犯部隊とかいう鉄道隊の人」(戦犯者クライムド)であり、ここに登場する三者は同列の存在ではないことには留意すべきであろう。

 英軍の行為は正当なものとは言えないだろうが、イラワジ河の中洲で「全滅した(させられた)」のは、「泰緬国境でイギリス人捕虜を虐待して大勢を殺したという疑い」のある部隊、つまり英軍捕虜虐待を実行した(とされる)部隊の隊員なのであって、「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」あるいは「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」に対する処遇であったわけではないということなのである。

 そのニュアンスの違い(そこには異なる処遇がある)を読み落としてしまうと、歴史的事実の理解としては不十分なものとなってしまうだろう。降伏した日本軍人・兵士一般に対する取り扱いが、「鉄道部隊」へのもの同様であったというわけではないのである。

 イラワジ河の中洲で展開されたのは、単なる日本軍捕虜虐待なのではなくて、かつての英軍捕虜虐待者に対する「復讐」なのだ(註3)。



(註1)
 会田雄次は、支那事変に従軍してはいないし、占領軍として住民統治に携わってもいないし、連合軍捕虜の取り扱いに従事した経験もない、教育召集からそのままインパール作戦直前のビルマに送り込まれた人物だ。
 つまり、皇軍の「残虐行為」の舞台とされる場とは(あまり)縁なく過ごした人物である。
 『アーロン収容所』を読む際には、その点にも留意すべきであろう。日本軍の残虐行為の実際に関係した人物に比べて、英軍人の復讐感情への理解は低いものとなるであろうから、英軍による取り扱いは、より不当なものとして感じられたはずなのである。

(註2)
 「戦争捕虜(プリゾナー・オブ・ウォー)」はPOWと略記され、戦時国際法規としてのハーグ条約に基づく地位(捕虜・俘虜)が与えられ、「戦犯部隊とかいう鉄道隊の人」は、ハーグ条約の違反者=戦争犯罪の容疑者(戦犯者クライムド)として取扱われており、どちらの地位も国際法に基づくものである。
 それに対し会田雄次がその一員であった「降伏軍人(サレンダー・パーソネル)、被武装解除人(ディスアームド・ミリタリー・パーソネル)」は、公式には「降伏日本軍人・Japanese Surrendered Personnel(略称・JSP)」と呼ばれる存在であった。戦時国際法上には存在しない地位であるが、国際法上の「捕虜(俘虜)」と異なる「地位」は、「虜囚の辱め」を嫌悪した日本軍人からも歓迎されていた節がある。

 JSP経験者のお一人によれば、


 英軍の公式戦史(''The War against Japan'' Vol,V, HMSO 1969)ではJSP設定の経緯につき、次の記述が見られます。


ALSEA(Allied Land Forces South East Asia)はStaffrd(注:英軍中将、Mountbattenが当時、Potsdam会談に呼ばれていたため、SEACの代行を務めていた)に対し「日本軍をSittang河西側に集結させては給養はできないから、河の東側にとどめ、彼等の補給方法に依存さすべきであり、全面的な現状維持を命令さるべきであるとし、降伏した軍はPOWとせず、’Japanese Surrendered Personnel(JSP) ’と定める。したがって日本軍の維持と軍規は依然として彼等自身の将校の責任である。


と初めてJSPを登場させています。
 このことが示すように、降伏した日本軍をPOWとして直接管理してゆく余裕(人員、予算)がないため、JSPという新しい管理形態を作り、日本軍を間接統治したものです。これは日本軍にとっても戦中の建制が保たれ、隊内の秩序と平和が保たれることになりました。


 SEACの方針は「最低限の費用で処理する」、「JSPに敗戦を自覚させるために出来るだけきつい作業をさせる、例えば道路補修」を明示し、更に「戦中の自国民の捕虜、抑留者に対する待遇に対する報復をする」事を暗黙裡に強行した。
 具体的には「日本軍は自活を原則」とした。蓄積の多かったジャワではアデプリン(マラリア特効薬)以外は英軍・オランダ軍より支給されたものは皆無。 「日本軍に敗戦を自覚させるため、出来るだけきつい作業として、炎天下の道路補修、港湾荷役、死体発掘、どぶ川さらいなど」をさせられた。食料は一日1,600-1,800カロリーで、戦争中の半分。これで、炎天下で重労働させるので、事故も多発する。軍司令官が抗議すると「戦中に我々の捕虜にした通りにしている」と取り上げない。赤十字などに頼んでも「無条件降伏だから、国際法の保護が受けれない」といわれた。


…という経緯であったらしい。ちなみに、


  軍司令官が抗議すると「戦中に我々の捕虜にした通りにしている」と取り上げない。


…とあるが、同様のエピソードは、会田雄次自身の経験として書中にも登場する。

(註3)
 この、イラワジ河の中洲でのエピソードは、会田自身の直接の体験による記述ではなくて、関東出身のPOWの兵士からの「伝聞」である点にも留意すべきだろう。
 私は、この話の信憑性について、ありそうな話だと判断しているが、現在のところ、歴史的事実として検証されたという話も聞かない。
 これが「南京事件」に関する話であれば、検証の厳密性を求め、伝聞証言に疑義を表明することに熱意を燃やすであろう人々が、ここでは、平気で、伝聞にとどまる記述をあたかも疑問のない事実であるかのように、ネット上で「拡散」することに熱意を燃やしているのである。
 「復讐」であることが、英軍の行為を正当化するものではないのはもちろんのことである。ただし一方で、日本本土空襲に際し墜落し捕虜となったB−29搭乗員の処刑・殺害の事実の背後にあったであろう、日本人の復讐感情に共感し得るのだとすれば、英軍人の行為も理解の対象とならねばならない。日本人がB−29搭乗員に抱いた復讐感情を当然視し、B−29搭乗員の処刑・殺害を当然視するならば、英軍の行為を非難することは難しくなる。


 

 

 

 

 


 読み込み中...
Binder: 現代史のトラウマ(日記数:647/全体に公開)
Gg[ubN}[N
最新コメント

このブログにコメントをつけるには、ログインする必要があります。
マイページをお持ちでないひとは「マイページを作成する」ボタンを押してマイページを作成してください。
不適切なブログを見つけたら、こちらからご報告ください!

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


http://www.freeml.com/feed.php?u_id=316274&f_code=1



Copyright(C)2017 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.