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続・洋上のB−29

2011/12/02 21:43

昨日の、B−29の不時着水と救難システムの話の続き。


チェスター・マーシャル氏の著書から引いたエピソードについて、文林堂の「世界の傑作機」シリーズの『ボーイングB−29』を参照し、内容を補強しておきたい。



マーシャル氏の著書の記述について、


これは、1944年12月13日のサイパンでのエピソードである。著者を含む25番クルーの乗機は、12月7日の日本軍による飛行場への攻撃(つまり、この時期のサイパンは、まだ日本軍の攻撃に対し、安全な場所ではなかった)により失われていたために、この日の名古屋への攻撃には参加していなかった。第878飛行隊からは12機が参加したが、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返して来ていた(理由は明示されていないが、機体のトラブルと思われる)。残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われたわけである。


…と、昨日の私は説明を加えたわけだが、まず飛行隊の編制について補足。

「世界の傑作機」シリーズには、



 このころ(1944年11月末を指す―引用者)の73BW(Bomberment Wing 爆撃航空団と訳される―引用者)は機材の補給が不充分なため、1個BS(爆撃飛行隊)の保有機は10機ほどしかなく、1機につき2個クルーが交代で搭乗した。やがて機材の空輸がはかどり出し、翌1945年の2月には予備機を含めて20機(定数は16機)にまで増加する。

          (49ページ)



…と書かれているが、マーシャル氏の著作中に「第八七八飛行隊」として記されているのが、878BS(Bomberdment Squadron 爆撃飛行隊)ということになる。つまり、1個飛行隊の保有機は20機で、作戦行動は16機編制で行なわれるのが正式なものであった。

それが1944年12月13日の名古屋空襲に際しては、


第878飛行隊からは12機が参加したが、一機はエンジン不調で離陸出来ず、実際に離陸した11機中2機は日本に到達する前に引き返して来ていた(理由は明示されていないが、機体のトラブルと思われる)。残りの9機が名古屋まで到達し、任務を果たしたものの、帰路に2機が失われたわけである。


…という状況であったわけだ。878飛行隊には可動機が12機しかなく(つまり「機材の補給が不充分なため」である)、そのうち離陸したのは11機、目標まで到達したのは9機、無事に帰還したのは7機。




「世界の傑作機」シリーズの記述から、問題の12月13日の経過を引用すると、



 将将毅贈叩複贈錚蹌癸紕髻。達錚蹌蹌瓧遑筺’撃機兵団)の次の大目標は、航空兵器工場のひしめく名古屋。同市初空襲の12月13日は、三菱重工・名古屋発動機製作所が標的に選ばれた。73BW各BGの3個BSのうち2個BSは通常爆弾、1個BSが集束(クラスター)焼夷弾を搭載した。

 発進90機のうち、71機が8,000〜9,700mの高空から好天下の主目標に投弾し、これまでの将将毅贈辰虜鄒錣悩嚢發班床舛気譴襪曚匹量臣翆討あった。日本軍が迎撃効果を低く見たのとは裏腹に、クルーたちは中京地区の高射砲と戦闘機の威力を激烈と感じた。落とされたのは4機で、3機の生存者はゼロ。499BG(Bomberdment Group 爆撃軍団―引用者)の1機だけが洋上不時着の翌日にカタリナ飛行艇に発見され、搭乗員が駆逐艦に助けられた。

          (50ページ)



この「カタリナ飛行艇に発見され」たのが、まさにマーシャル氏の著作にある、リンゼイ・(サイ)・シルヴェスター中尉の乗機の搭乗員達だったわけだ。

また、12月3日の作戦(当初は群馬県の中島飛行機・太田製作所が目標だったが、天候不良のため、都内の中島飛行機・武蔵製作所に変更)についての記述中に、



 もちろん、これまでの重爆に比べて格段に強靭なB−29だから、簡単に落とされてはいない。

 別の498BG機は投弾を前に、僚機との空中衝突を避けて単機になったために、戦闘機にたかられ、手ひどく被弾して燃料と滑油系統が破壊。さらに高射砲を浴びて爆弾倉扉が閉じなくなったが、追っ手を逃れて6時間飛び続けた。不時着水から11日間を救命ボートで漂流したクルーは、サイパンから480キロの海域で救助された。

          (49〜50ページ)



…とあるが、これもマーシャル氏の著作に、



 救難駆逐艦には、第四九八爆撃連隊の機長フランシス・マレー大尉以下のクルー一〇名が乗っていた。このクルーは一二月三日の東京空襲のときにサイパンの北三〇〇マイル(四八〇余キロ)の海上に不時着水した。唯一の犠牲者がパイロットで、飛行機とともに沈んだ。マレー大尉と乗組員は筏三つに分乗して一一日間漂流したあと駆逐艦「カミングス」の救助隊に引き上げられたのである。



…として登場する、フランシス・マレー大尉以下10人のB−29搭乗員のエピソードである。



 









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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2011/12/02 23:11
    …というわけで、昨日の補足。

    本は一冊より二冊読んだ方が、理解が立体的になる。
    …とか言っていると、どんどん本が増殖する。

  • Comment : 2
    Mr.Dark
    Mr.Darkさん
     2011/12/03 01:57
    1944年にもなると、日本陸・海軍の航空隊は重機関砲(20mm口径)を多数装備した迎撃機(四式戦)で応戦したようですが、大口径の弾丸を食らいながら飛び続けるB-29は相当タフな造りであった、ということがうかがえるエピソードですね。
    しかし…大本営発表のラジオ放送では、「敵機全機撃墜せり。我が方の損害は極めて軽少なり」ばかりであったと…。
    日本軍の迎撃機クルーは、高高度を安定して飛び続けるタフなB-29を撃ち落とそうにも落とせないことに業を煮やしていた者も少なからずの状況だったはずです。
    そんな折りに、ラジオの“誤報”が喧伝されているようでは、軍の上層部に対して疑念や不信感が芽生えても当然ですよね。
    高高度飛行性能に劣る戦闘機をあてがわれていた当時の日本軍パイロットたちは、地団駄踏んで憤懣やる方なしだったのでは…と思います。

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