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「大日本帝國」の「大」の問題

2011/12/18 14:59

 

  「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

 

…というのは、言うまでもない話だと思うが、それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。

 

 国家の呼称としての「大日本帝國」の用例の代表的なものと思われるのは、

 

 

 天佑ヲ保全シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。
 朕茲ニ清國ニ對シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)

     「明治天皇 清國に對する宣戰の詔」 明治二十七年八月一日 官報 (森清人 『詔語索引』 啓文堂書店 昭和十七年 173〜174ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。

 朕茲ニ露國ニ対シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)

     「明治天皇 露國に對する宣戰の詔」 明治三十七年二月十日 官報 (前掲書 190ページ)

 

 天佑ヲ保有シ、萬世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國皇帝ハ、忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。

 朕茲ニ獨逸國ニ対シテ戰ヲ宣ス。…(以下略)

     「大正天皇 獨逸國に對する宣戰の詔」 大正三年八月二十三日 官報 (前掲書 213ページ)

 

 天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス…(以下略)

     「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」 (前掲書 ただし扉ページの表記―これ以外の引用は本文の表記によるものであり、句読点が添えられているが、本来は句読点なしのものである―による)

 

 

…といったものであろう。これらでは、「大日本帝國」という国家の皇帝あるいは天皇(その称号表記の変遷も興味深いが、ここではその問題には立ち入らない)により、「宣戰の詔」が発せられているのである。「詔書」という最高度に公的な文書の中で、「大日本帝國」という呼称が、国家の自称として用いられている事実が確認出来るだろう。

 

 

 

 
 さて、「大日本帝國憲法」における「大日本帝國」表記の成立過程を、清水伸『明治憲法制定史 下』(原書房 明治百年叢書 1973)により見ておきたい(原著の刊年は昭和15年)。示されるのは、枢密院における憲法原案の討議過程である。

 

 

     二 国号「大日本帝国」の決断(第一条)


 第二読会の討議は、原案「第一章 天皇」、「第一条 日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」からはじめられた。この条は、原案に見るように、「日本」に「大」が無いことが、まず議場の注目をひいた。すなわち寺島宗則提議して曰く、

  『皇室典範には大日本とありて、此憲法には只日本とのみあり。故に此憲法にも大の字を置き、憲法と皇室典範との文体を一様ならしめん事を望む。』

 さきに枢密院で決議した皇室典範「第一章 皇位継承」、第一条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、その国号には「大」を冠したのに、憲法にはこれがないのは、首尾一貫せぬ不体裁といわねばならなかった。したがって森有礼、大木喬任、土方久元等も進んで寺島の一元化の提案に賛成した。しかし、「大」を除いたのは、起草者の十分に意識していたところであり、決して書落としなどの結果ではなかった。井上毅は寺島にその諒解を求めた。

  『皇室典範には大日本と書けども、憲法は内外の関係もあれば、大の字を書くこと不可なるが如し。若し憲法と皇室典範とは一様の文字を要するものなれば、叡旨を受て、典範にある大の字を削り、憲法と一様にせんことを望む。英国に於て大英国(グレイト・ブリタン)と云ふ所以は、仏国にある「ブリタン」と区別するの意なり。又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。』

 かえりみるに当時の日本は、維新の業成って漸く二十余年を経過したばかりで、国際的地位はきわめて低かった。情けないことに、列強の顔色を恐れ気兼ねする結果、国号に大の字を冠するさえ、左顧右眄せねばならなかったのである。世界の大勢に明るかった森有礼は、井上の見解に同意してかどうか、直ちに井上説による文体の統一を支持して、

  『大の字を置くは自ら誇大にするの嫌いあるや否やに係わらず、典範と憲法と国号を異にするは目立つものなれば、之を削ること至当ならん。』

 ところが吉田清成はこれと反対であった。すなわち、

  『典範には已に大日本とあり。又此憲法の目録にも大日本とあり。故に原案者は勿論同一にするの意ならん。』

 ただし吉田の大日本説も、起草者の、「内外の関係もあれば……自ら尊大にするの嫌いあり」との思慮に対して触れず、僅かに典範の前例を指摘して、前後の矛盾を言及するにすぎなかった。

 「日本」か「大日本」か。これ、第二読会の最初の憲法上の問題であった。かくして国号問題の解決が必要になったのであるが、この問題は、これ以上の論議なく、にわかに解決を見た。それは伊藤議長の決断であった。曰く、

  『此事は別に各員の表決を取らずして、大の字を加えて可んらん。故に書記官に命じて大の字を加えしむ。』

 これは伊藤が、議場に「大」の賛成者が圧倒的だったのに、当事者のみが原案を固執する無意味を察し、かく改めさせたものと思われる。ついでその他の点に関する異論を待ったが、それらしいものはなかったので、

  『本条につき別に意見なければ、直に原案同意の起立を乞ふ。』

 会議手記には『起立(全会一致)』とあり、実にわが「大日本」は、このようにして決定されたのであった。よって伊藤は、

  『全会一致に付、本条は原案に可決し第二条に移る。』

と、この成立を宣したのである。

 思うに、伊藤のこの「大」に対する決断が、はたしてわが国に対するそのような信念にもとづいたものであったかいなかは不明である。なぜなら、政府は憲法発布と同時にその英訳を公表したが、そこには、原文の「大日本」は、”Great Japan”と訳されていなかった。恐らく当時の伊藤は、「大」の拒否が井上の言う様に外国に対する気兼ねだけの理由ならば、英訳の際に手心を加えればそれでよい、とも考えていたためだったのではあるまいかと思われる。

          (156〜159ページ)

 

 

 これが、「国号」としての「大日本帝國」表記の可否が論じられた、枢密院(これは「議会」ではない)での憲法制定に際しての議論の実際であった。

 

 ここでは、皇室典範では「大日本帝国」ではなく「大日本国」表記であったらしい点が気になるが、今回はその問題に立ち入ることはしないでおく。

 

 また、「大日本」表記に関しては、手元にある当時の貨幣を見ると、すべて「大日本」となっている。たとえば明治4年の20銭、大正2年の10銭、昭和12年の1銭、すべて「大日本」表記であり、少なくとも貨幣上の国号表記に関しては、明治初年から戦前期昭和に至るまで、「大日本」で一貫していたらしいことがわかる(「大日本國」あるいは「大日本帝國」ではなく「大日本」なのである)。

 

 いずれにしても、


  又大清、大朝鮮と云うものは、大の字を国名の上に冠して自ら尊大にするの嫌いあり。寧ろ大の字を削り、単に日本と称すること穏当ならん。


…との井上の主張は、皇室典範との表記の一貫性の保持という形式性が重視される枢密院の議論過程で、顧みられることがなく終わったのであった。「自ら尊大にするの嫌いあり」と、井上に指摘された国号「大日本帝國」が、こうして選択・決定されたわけである(註:1)。

 

 

 

 「国号」としての「大日本帝國」表記の使用事例として、もうひとつ、ここでは当時の教科書(もちろん「国定」教科書である)の記述を参照してみたい。

 

 

     第三課 擧國一致


明治三十七八年戰役は、我が大日本帝國が、國家の安全と東洋の平和のためにロシヤと戰つて、國威を世界にかがやかした大戰争であります。明治三十七年二月十日に宣戰の詔が下ると、國民は皆一すぢに大御心を奉戴して、帝國の為に盡さうとかたく決心しました。

…(以下略)

 

     第二十七課 よい日本人


わが大日本帝國は萬世一系の天皇を戴き、御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は數千年来、心をあはせて克く忠孝の道に盡くしました。これが我が國の世界に類のないところであります。我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、祖先の志を継いで、忠君愛國の道に励まねばなりません。忠君愛國の道は君國の一大事に臨んでは、擧國一致して奉公の誠を尽くし、平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、國家の進歩發達をはかることであります。我等が市町村の公民としてよく其の勤めを盡すのは、やはり忠君愛國の道を實行するのであります。

…(以下略)

 

 

…と、「尋常小學校修身書 巻五」(ここでは大正11年から用いられた、いわゆる「第三期」の修身教科書から引用―『日本教科書体系 近代編 第三巻』 講談社 1962 172ページ 193〜194ページ)にある通り、ここでも「大日本帝國」表記が採用されているのを読むことが出来る。

 つまり、文部省による「国定」の教科書中に、「大日本帝國」という呼称が採用されており、その呼称の公的性格が窺われるわけである。

 

 

 

 しかし、実際には、当時の各種の公文書類を読むと、「日本帝國」や「日本政府」といった表記に出会うことも珍しいことではなく、当時の「国号」の表記法自体が、それほど厳密なものではなかったと考えることも出来るだろう。

 たとえば、先の『詔語索引』にある、「大正天皇 (摂政御名) 学生頒布五十周年記念式典に際し下し給へる勅語」の出典名は、「大正十一年十月三十日 日本帝國文部省第五十年報」となっているのである。「國定教科書」の元締めである文部省が、「大日本帝國」ではなく、「大」のない「日本帝國」を、自省の年報という公的性格の文書の表示で用いていたというわけである。

 

 

 

 

 

 私自身は、「大日本帝國」表記を愛用しているが、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」表記を愛用し、「日中戦争」ではなく「支那事変」を愛用しているのと同様、それが歴史的用語としての妥当性を持つと判断しているからである。実際にこれまで見たように、公的に厳密な場面での使用例を多く見ることが出来るし、あの事大主義的国家の呼称として、「自ら尊大に」振舞った果てに亡国への道を辿った国家の呼称として、「大日本帝國」表記は実にマッチしたものであると判断しているからでもある。

 

 

 

 

 

【註:1】
 大日本帝國憲法は、


朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス
     (憲法發布勅語)
將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執リ之ヲ議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ
朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ爲ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ
     (上諭)


…とあるように、天皇により「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」ることで発効し、「將來若此ノ憲法ノ或ル條章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ繼統ノ子孫ハ發議ノ權ヲ執」ることでのみ「條章」の「改定」が可能になるものであった。
 憲法條章の改定に関しては、天皇の発議によるもののみが可能であり、それ以外は「朕カ現在及將來ノ臣民ハ此ノ憲法ニ對シ永遠ニ從順ノ義務ヲ負フヘシ」とされ、つまり天皇以外に憲法の改定を発議出来る存在はなかったのである。
 ここに「天皇大権」の意味がある。議会の権能は、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外」には存在し得ないのである。つまり、国民=臣民=議会には、憲法改定の発議権はないというのが、大日本帝國憲法の原則なのであり、それが「国民主権」による「日本国憲法」との決定的な相違点なのである。


 つまり、「朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布」した後には、その條章の改定には天皇の発議が要件とされ、である以上、発布後は「大日本帝國」という「国号」の変更についても、天皇の発議による以外にはなし得ないことになる。
 国号の変更についても、国民(議会)は発議し得ないというのが、大日本帝國憲法上の原則なのである。


 しかし、一方で、「議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という文言、そして「第三十七條 凡テ法律ハ帝國議會ノ協贊ヲ經ルヲ要ス」というような條規の解釈により議会の権能を強化しようと試みたのが、いわゆる「天皇機関説」なのである。「君臨すれども統治せず」との言葉で表現される「立憲君主」としての天皇像は、いわば解釈改憲の産物なのである。大正期から昭和初年には、その天皇機関説が公的天皇像を支えるものにまでなったが、その後の「国体明徴運動」とそれに促された政府の「国体明徴声明」により「天皇機関説」が公的に否定され、天皇大権の強調による「君臨し統治する」天皇像(御親政的天皇像)が、敗戦に至る昭和期の大日本帝國を規定するものとなったのである。
 その結果として、「裁可ノ権」のみでなく「裁可セザルノ権」をも保有した、大権の保持者としての天皇像が国家運営の基本に位置付けられてしまうことになった。これは、昭和天皇自身が天皇大権を積極的に行使し、独裁的に振舞ったということを意味するわけではない。しかし、政治システムの中での天皇大権の位置付けが、政治的意思決定の硬直化と責任主体の曖昧化に結びつき、敗戦に至るこの国の歴史過程を支配したことは否定出来ない。それは、大枠としては、天皇の意思の問題ではなく、憲法システムの問題なのである。


 そのような「裁可セザルノ権」をも保有した御親政的天皇像(それは「立憲君主による御親政」なのである)の下では、「議會ニ付シ議會ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スル」という規定が存在しようとも、その議決の結果を「裁可セザルノ権」をもって否定することさえも天皇には可能なのである。


 この構図を把握しない限り、敗戦に至る大日本帝國期の歴史は理解し得ないし、大日本帝國憲法の歴史的意義を理解したことにもならない。







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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2011/12/18 15:23
    久方ぶりの「日本国の象徴と、國體の本義」シリーズ。

    この「大」の問題は、
    以前から書いておこうと思っていたテーマ。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2011/12/18 17:15
    ココログにもアップ。


    日本国の象徴と、國體の本義 18(大日本帝國の「大」)
    http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-48f7.html

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2011/12/18 17:24
      「大日本帝國憲法」が、そのように呼ばれるのはなぜか?

    …というのは、言うまでもない話だと思うが、それが「大日本帝國」という名称の国家の「憲法」だからである。


    …と書いたわけだが、
    「大日本帝國」が「国号」として位置付けられた背景には、

     憲法の条規の文言が「日本帝國」でなく「大日本帝國」とされた

    …という構図もある。
    相補的な構図として理解する必要があるかも知れない。

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