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遠野の噂話としてのリアリティー 3

2012/08/29 19:28

『遠野物語』を、アノニムな昔話としてではなく、リアルな同時代の噂話として読んでみることを試みたらどうか、という話をしていたわけだが、まず昨日の「五五」のエピソードをもう一度読んでみよう。



あの川童をめぐるエピソードのリアリティーは、情報源が特定され、対象が特定され、当事者では知りえないであろう詳細が語られていることが支えている。具体的に示せば、


特定された情報源

 女の壻(むこ)の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。其主人人に其始終を語れり。


特定されている対象

 松崎村の川端の家

 此家も如法の豪家にて〇〇〇〇〇と云ふ士族なり。村会議員をしたることもあり。


事実関係とされるものの詳細さ

 生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。其形極めて醜怪なるものなりき。

 かの家のもの一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑ひてあり。次の日は昼の休みに亦此事あり。斯くすること日を重ねたりしに、次第に某女の所へ村の何某と云ふ者夜々通ふと云ふ噂立ちたり。始めには壻が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、後には壻と寝たる夜さへ来るやうになれり。川童なるべしと云ふ評判段々高くなりたれば、一族の者集まりて之を守れども何の甲斐も無く、壻の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々如何にともすべきやうなかりき。

 其産は極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽に水をたたへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。その子は手に水掻あり。


…といったことになろう。



特定の家をめぐる川童の子の出産と殺害・遺棄が、当事者の一人による話を情報源として、妊娠に至る経緯までを含んで、詳細に語られているのである。




妖怪という存在のリアリティーとして考えた場合、鳥山石燕の妖怪画との比較が有効かも知れない。石燕の「妖怪画」について言えば、描かれているものの多くはリアルな存在としての妖怪ではなく、当時の政治的社会的文化的ネタとしての石燕の創作による妖怪であり、研究者からは江戸の都市文化の産物として位置付けられている。

それに対し、遠野の川童を含む妖怪の類について言えば、自然に属するリアルな存在として語られていることは否定し難い。


もちろん、この川童の子をめぐるエピソードを近代的視線で解釈し、難産の末に産まれた障害児の殺害・遺棄事件として、あるいは不義密通による妊娠出産への対処が生んだ悲劇的事例として理解することは可能であるし、当時の遠野でも、この話を語る者にも聴く者にも、そのような解釈があり得たであろうことを否定する必要はない。



しかし、


 生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。


…として語られた、殺害と遺棄の作業の詳細の持つリアリティー、あるいは「五六」のエピソードにある、


 忌はしければ棄てんとて之を携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立帰りたるに、早取り隠されて見えざりきと云ふ。

…という、当事者の心の動きのリアルさも否定し難いものである。

前者は、それが、


 極めて難産なりしが、或者の言ふには、馬槽に水をたたへ其中にて産まば安く産まるべしとのことにて、之を試みたれば果して其通りなりき。


…という出産時の詳細に続くことで、そのリアリティーが強化されているし、後者は、路上に一度は遺棄した障害児を「売りて見せ物にせば金になるべきに」と考え直して「立帰りたる」という心理的過程と行動に、そのリアルさが宿っているわけである。









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