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戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路

2012/12/18 22:22



 戦争体験に固執するかぎり、そこからは何ものも生まれないであろうし、それは次代に伝承されることも不可能であろうという批判は、耳の痛くなるほど聞かされている。しかし、戦争体験を放棄することによって単なる日常的な経験主義に陥り、その都度かぎりの状況のなかに溺れることだけは、ぼくはもうマッピラだ。

 戦争体験の伝承ということ、これについては、ほとんど絶望的である。ぼくは、戦争体験に固執し、それについて、ブツクサといいつづけるつもりであるが、それを次代の若者たちに、必ず伝えねばならぬとは考えていない。最近どこかの座談会で、「それを受けつぐか、受けつがないかは、若いゼネレーションの勝手たるべし」と発言していた竹内好の言葉に、ぼくはぼくなりに、全く感動的に共鳴するのである。   (『戦争体験』)




福間良明氏は、この安田武の文章を引いた後に、



 安田は、頑なに戦争体験の語りがたさにこだわり、わかりやすい形で戦争体験を若い世代に伝えることを拒もうとした。戦争体験を「受けつぐか、受けつがないか」は、安田にとってみれば「若いゼネレーションの勝手」でしかなかった。ましてや、戦争体験の表層的な部分を都合よく、その時々の政治主義に流用することなど、安田には許容しがたいことであった。右のような突き放した物言いも、戦後派以下の世代の戦争体験への向かい方に対する安田の絶望を示すものでもあった。

     福間良明 『「戦争体験」の戦後史 世代・教養・イデオロギー』 中公新書 2009  158ページ



…と記している。

福間氏は、その先で再び安田武の文章から、



 何を継承するかが緊急の課題であって、何を伝承するかは、二の次のことである。それに、伝承ということが可能になるためには、継承したいと身構えている人びとの姿勢が前提であろう。継承したくない、と思っている者に、是が非でも伝承しなければならぬ、と意気込むような過剰な使命感からは、ぼくの心はおよそ遠いところにある。戦争体験を現在に生かすも生かさぬも、それはまったく、それぞれ各自の問題であって、余人の立ち入るところではない。戦争体験から何も学びたくないと思う者、あるいは何も学ぶことはないと考える者は 学ばぬがよいのである。書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる。死んでしまった筈のそのような可能性から、やがて復讐される、その亡霊に悩まされることもあり得る、ということをおそれぬものは、戦争体験にかぎらず、およそ歴史のすべてから、何も学ばぬがよい。若い世代は、いつの時にも、記憶を持たぬものだ。   (『戦争体験』)



…という言葉を引き、



 安田はしばしば、挑発的な表現を用いるが、そこでこだわっていたのは、戦争体験の伝承の困難さであった。とはいえ、安田はそれを不可知論として扱うわけではない。むしろ、困難をともなう戦争体験の伝承がいかにすれば可能になるのかを、模索しようとしていた。戦争体験が次世代に受け継がれる上で重要なのは、「継承したいと身構えている人びとの姿勢」であって、それをわかりやすく、あるいは心地よく「伝承」することではない。そうした安易な「伝承」では、幾多のものが切り捨てられ、「無数の可能性が死」ぬことになる。そうした「伝承」を避けるべく、声なき「死者」の声、容易に言い表せない心情に謙虚に耳をすませる――そこに、安田は戦争体験を伝承するぎりぎりの可能性を見出していた。



…と記している。






人は、経験と共に、あるいは経験の中を、生きている。生きているということは経験することと同義である、と言ってもよい。

言うまでもない話であるはずだが、日常的経験のすべてを語ること(語り尽くすこと)は不可能である。経験は身体全体に関わるものであり、そのすべてを語り尽くすには言葉はあまりに無力なのである。


そもそも、そのような構図が、ありふれた日常的経験を語ること(語り尽くそうとすること)への制約として、既に存在している。



「戦争体験」は、平時の日常的経験から可能な想像力の外部に大きく拡がるものとして体験されるものであり、日常性に立脚した言葉による語りの可能性を超えたものとして体験されてしまうものなのである。しかも「戦争体験一般」というものなど存在せず、あるのは、日常性に立脚した言葉によっては語り難い個々の個別の体験なのだ。

語り難い体験の中からかろうじて言語化されたもの(語り得たもの)だけが、私たちの前に存在するのである。

「語り難い体験」を語ろうとする場合、その語り難さに語ることを断念するか、語り難さを乗り越えて語ろうとすることに執念を注ぐか、語り難さをステロタイプな表現に変換して済ませてしまうかのいずれかしかないように思われる。

語りが断念されてしまえば、その「語り難い体験」へのアクセスの手段は存在しない。

ステロタイプな表現に変換された戦争体験は、わかりやすいものとして歓迎されるだろうが、そこからは「語り難さ」が欠落しており、ある種の戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路も失われてしまうことになる。


ここにあるのは、安田武の、


 書かれ、伝説化された歴史の裡には、書かれず、伝説化もされなかった無数の可能性が死んでいる


…という表現に込められた思いに、どこまで我々の想像力が及ぶのかという問題と言えるだろうか?









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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2012/12/19 00:03
    「わかりやすさ」を求めては、結局は何も伝わらない。


    しかし「語り難さ」に付き合うには知的体力が求められる。

    実に難しいところである。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2012/12/19 00:34
    ココログ版「現代史のトラウマ」にアップ。

     戦争体験の「語り難さ」への想像力への回路
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-534f.html

  • Comment : 3
    askyneko
    askynekoさん
     2012/12/22 11:55
    >「わかりやすさ」を求めては、結局は何も伝わらない。
    >しかし「語り難さ」に付き合うには知的体力が求められる。
    >実に難しいところである。

    しみじみと同意であります…

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