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続々々々々々々・恐ろしき者の末の末

2013/02/03 23:48


クンデラは、


 一六一八年チェコの上流階級の人たちが勇気を奮いおこして、自分たちの宗教の自由を守ることを決意し、ウィーンに居を構えていた皇帝に憤激し、プラハの城の窓から皇帝の二人の高官を投げ落とした。そこでチェコ民族をほとんど完全に絶滅に導いた三十年戦争が始まった。当時チェコ人は勇気より慎重さのほうを示すべきであったろうか? 答えは容易であるようにみえるがそうではない。
      クンデラ 『存在の耐えられない軽さ』 集英社文庫  282〜283ページ


…と書いていたわけだが、その悲惨な三十年戦争はウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)により終結する。

ウェストファリア条約によって、現在の「国際法」の基礎となった国家観が確立されたわけである。


『ウィキペディア』先生にご登場願うと、「ウェストファリア条約」の結果ヨーロッパにもたらされた「ウェストファリア体制」について、


 もっとも大事なのは国家における領土権、領土内の法的主権およびと主権国家による相互内政不可侵の原理が確立され、近代外交および現代国際法の根本原則が確立されたことである。体制自体は、当時のヨーロッパ列強、フランス王国、神聖ローマ帝国、スウェーデン王国(バルト帝国)及びヨーロッパの経済大国、イングランド王国、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)によって維持されたが、18世紀の戦争(大北方戦争、第2次百年戦争)によって形骸化し(1740年以降は、グレートブリテン王国、ハプスブルク帝国、フランス王国、プロイセン王国、ロシア帝国の五頭体制に移行する)、ナポレオン戦争をもって完全に崩壊する。

 しかし、本条約の原則を基礎とする国際法は以後も継続されたため、現在の主権尊重の国際法そのものの現在のあり方を「ウェストファリアシステム」と呼ぶこともある。


…と説明されている。

これ以後、国家の統治権力による排他的な一元的領域支配に基礎を置く「主権国家」間の関係として、ヨーロッパの国家間の外交は展開されるようになる。そこでは統一的な権力が国境線内を排他的に支配する事実に、主権の存在を見るのである。


その17世紀ヨーロッパの、そもそもはローカルな国家間関係を律するものであった「主権国家」概念は、ヨーロッパ諸国が「列強」としてアジア・アフリカを植民地化するにつれ、地球全体を覆うものとなる。

19世紀の後半には、日本を含む東アジアも、その国際法(「萬国公法」などと訳されていたが)システムの中に組み込まれてしまうのである。


それまでの東アジア世界は、帝国としての中国を中心とした冊封体制を国家間システムとしており、それはヨーロッパ流の主権国家とは異なる国家概念に基づくものであった。


そこでは琉球國は、その国王の地位を中国(明・清)の皇帝に保障され、それに対し朝貢の義務を果たすことで、東アジアの(冊封体制内の)一国家として位置付けられていたが、その一方で17世紀以降は薩摩藩の支配下にも置かれ、その状況を「両属」と呼ぶことで処理されてきた。琉球國の統治権力は、排他的に領域支配をするという意味での、ヨーロッパ的な「主権」を行使する主体ではなかったわけである。


ここで問題となるのは、そのような琉球國を「独立国」と見做し得るのかどうかである。

冊封体制内の諸国家は、形式的には中国皇帝権力の従属的な存在であり、そもそもその意味では、ヨーロッパ的概念での主権国家とは異なる側面があることは否定出来ない。しかし、その「従属」は形式的なものであって、諸国家の国王は領域内での排他的な権力行使の主体でもあった。


ただし、琉球國には薩摩藩の支配を排除する軍事的基盤はなく、その意味で琉球国王の権力は限定されたものだったが、しかし薩摩藩(そして徳川幕府)の側もまた、琉球國と中国皇帝権力との関係を放置し、琉球國に対する排他的支配を確立することもなかったのである。


その意味で、琉球國を独立国として取り扱うことの正当性は、一義的に決定される性質のものとはなり得ないのである。




「琉球処分」により、琉球國の独立が終焉を迎えたのか、それともそれ以前に(薩摩藩の支配により)琉球國の独立は失われていたのか? その問いに簡単に答えることは難しい。


伊江王子が「琉球処分」の最初の段階を受け入れたことで琉球國が独立を失ったのか、そもそもそれ以前に既に独立状態ではなかったのか? そこから考えなければならない問題なのである。










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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2013/02/04 00:52
    三十年戦争の歴史的経験を介して、
    1618年のチェコと明治五年の伊江王子の姿が重ね合わせられるわけだ。

  • Comment : 2
    Mr.Dark
    Mr.Darkさん
     2013/02/04 01:17
    君臨すれど統治せず、という言葉が有りますが、薩摩と琉球の関係には当てはまらないでしょうね?

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2013/02/04 12:15
    >君臨すれど統治せず、という言葉が有りますが…


    国内政治上の君主の権能の問題なので、
    対外関係(薩摩と琉球の関係)には当てはまらないでしょうね。

    君臨し統治する君主(←大日本帝國憲法の天皇大権)もいれば、
    君臨すれども統治しない英国国王的君主もいるわけです。

    そういう意味では、
    琉球國王は、君臨し統治していたことにはなりますね。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2013/02/04 12:17
     ↑
    琉球國に君臨し統治する国王という位置づけを前提にして、
    その統治の経済的利益を吸い上げていたのが薩摩藩なわけですから。

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2013/02/12 18:29
    加筆して、ココログ版の「現代史のトラウマ」にアップ。


     恐ろしき者の末の末 8
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-8511.html

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