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兵站勤務ノ困難(資料篇)

2013/10/18 20:11

佐々木輜重兵大佐の『兵站勤務ノ研究』(偕行社 昭和7年)に「附録」として収録されている日清戦争時のエピソードに、



平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ其人足カ十月末頃沸々到著シタカ荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ



…との記述があることを紹介したわけだが、その背景について確かめておきたい。



 八月二日の『読売新聞』は、以下のような記事を載せている。


  日本橋南茅場町に住みて有名なる侠客石定の乾児(こぶん)数百名は、何も生命は親分に預け置くと云ふ血気の盛んな連中計なるゆゑ、其中より五百名の壮健者を撰抜し、運送人夫として使用せられ度き旨、已に其筋へ出願せし由にて、許可あり次第、広島へ向け出発せしめんとて昨今専ら準備中。


 侠客石定こと高橋大吉は、七月に子分千人を率いて従軍を願い出たが容れられず、あらためて軍夫として従軍を願い出ている。義勇軍がだめなら、せめて軍夫としてでも従軍したいというのである。同日の『読売』は、同じく麹町の侠客、柴田喜太郎が子分五十人を率いて渡韓することになった、とも伝えている。ほかにも山梨県甲府では、侠客早川勘十、佐々木勘吉が、子分五百名を集めて従軍を志願している。
 このような従軍志願熱は、剣客や力士など「腕に覚えのある」男たちのあいだにも広まっていく。従軍志願はたんに政治的な運動というだけでなく、「男らしさ」の表現でもあった。七月三十日の『読売』は、青森県を巡業中の高砂浦五郎や西ノ海、小錦、朝汐といった力士たちが従軍を志願していて、準備に余念がないと伝えている。
 相次いだ従軍志願には、愛国心からというだけでなく、軍人や軍夫になって一旗挙げたいという目論見もあったようだ。七月二十二日『郵便報知』は、人力車夫たちが「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込み、日々の仕事にも手が附かざる有様ゆゑ、各雇主はすこぶる迷惑しをる由」と伝えている。
     佐谷眞木人 『日清戦争 「国民」の誕生』 講談社現代新書 2009  147〜148ページ




日清戦争に際しては、ある種の国民の間で、「義勇軍」の結成と、「義勇軍」による戦争参加の動きが盛んであった。




 原田敬一は、新聞記事に見えるだけでも、五十二の事例があること、これらの参加者には旧士族の再結集がもっとも多く、国権派・民権派、侠客がそれに次ぐと指摘している(『日清戦争の社会史』)。
     同書  144ページ


 当然のことながら、義勇軍の戦争への参加を政府は認めなかった。にもかかわらず、各地で義勇軍の結成が相次いだため、政府は警察を通じてその動きを抑えようとした。しかし、沸騰する国民の熱意は、警察には抑えきれず、八月七日、政府はついに「義勇兵ニ関スル詔勅」を発した。
 詔勅は「各地ノ臣民義勇兵ヲ団結スルノ挙アルハ忠良愛国ノ至情ニ出ルコトヲ知ル」と述べる。しかし、続けて「国ニ常制アリ民ニ常業アリ」と諭す。つまり国には「常制」つまり正規軍、民には「常業」すなわち日々の仕事があるから、「義勇兵ノ如キハ現今其ノ必要ナキヲ認ム」というのである。この詔勅によって、ようやく義勇軍運動は下火となっていった。
 義勇軍運動に旧士族が熱心なのはともかくも、侠客が多数参加していることに興味が惹かれる。幕末の尊王攘夷運動にも侠客は大きな役割を果たしていた。侠客というと、ならず者のように思われがちだが、幕末維新期には在野の政治勢力という側面も有していたのである。そのような気風が、この時代までは残っていたのであろう。
     同書  146〜147ページ



…という次第で、義勇軍による戦争への参加から、軍夫(つまり「運送人夫」)としての参加へとシフトしていったわけである。

佐谷氏の伝える「剣客や力士など腕に覚えのある男たち」の「従軍熱」については、後の支那事変段階で生起した、「剣士」による捕虜の「試し斬り」にまでつながる問題と思われる。

いずれにしても、軍の訓練を経ていない人間たちが、軍夫として「従軍」することに、日清戦争時の日本の戦争遂行は依存していたのである。


さて、一ノ瀬俊也氏の『旅順と南京』の記述に戻ると、



 前述の通り、第一師団は野戦師団と兵站部に大別されるが、その野戦師団の総員は二万八六人、そのうち軍夫が三七六八人、兵站部は総員四八〇四人、うち軍夫は四二五六人であった。つまり、第一師団の総員二万四八九〇人中、八〇二四人が「国際法上の戦闘員としての資格の疑わしい」(大谷正「「文明戦争」と軍夫」1994)軍夫であった。馬は馬は乗馬・輓馬・駄馬の動員計画が五三八三頭だったのが、実際の動員数は二五四四頭であった。減らされた約二七〇〇頭の駄馬を徒歩車輛(大八車)一四〇五台で補い、それを軍夫が引いたのである。
 軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった。熊本第六師団のように、駄馬より人間を雇うほうが安上がりという意見を上伸した師団もあった。かくして八月下旬以降各師団は大量の「人夫」雇用を開始した。結局日清戦争を通じて内地から雇用した軍夫は一五万三九七四人、清国・台湾にて現地雇用した人員は実に延べ一二一一万人余にのぼった。日本人軍夫は形式的には読法式(軍の規範である「読法」を朗読させる宣誓式)を済ませていちおう軍属の資格を備え、陸軍刑法の管轄に属した(大谷正「旅順虐殺事件再考」1995、原田敬一「軍夫の日清戦争」1997)
     一ノ瀬 前掲書  45〜46ページ



経緯としては、「軍は当初、後方輸送は輜重兵・輜重輸卒の担当する駄馬の使用、朝鮮の人夫・馬の雇用で補えると安易に考えていたが、朝鮮半島の道路事情は馬匹の使用に適さず、また朝鮮人の逃亡などが相次いだため内地から人夫(=軍夫)を募集することになった」(『兵站勤務ノ研究』に「平壌陥落後第一軍ノ給養事務カ絶對不安ニ陥ツタ時ニ軍参謀長ヨリ大本営ニ向ツテ「日本人足一萬人ヲ急キ渡韓セシメラレタシ」ト請求シタ」として経緯が記述されている問題である)結果として、「人夫となりてかの地に渡り、死を期して一儲けせんとて非常に意気込」むような男たちが「軍夫」として雇用されることになったわけである。そして、軍は、



 東京出発直前まで、丸木の属する第一師団第二糧食縦列では「不品行なる人夫」が続々と解雇される有様であった。『縦列陣中日子』によると九月一九日四名、二一日六名、二二日二名、二三日一名、二十四日八名、二五・六日四名がその理由で解雇され、「直ちに補充」されている。
     一ノ瀬 同書  46ページ



…と、「不品行なる軍夫」の問題を抱え込むこととなった。

しかし、その「不品行なる軍夫」への軍の待遇自体もまた不十分なものであった。


 先にふれたように、軍夫ばかりが凍死しているのは、兵士と異なり十分な防寒装備が与えられなかったためである。当初は前述のように「寒さを凌ぐためチャンの明家に行き衣類を持来り着て居るのを見られ罰を食う」(一〇月二八日)者があったが、死者が続出する有り様に、本来「文明の義戦」の建前を堅持すべき上官も黙認せざるをえなかったのであろうか。
     同書  118〜119ページ


 丸木日記には「とびら打こわし焚物にした」とあるが、一月一九日、金州で出された第一師団会報(『連隊歴史』所収)にも「報告によれば、家屋の戸扉を脱し持ち去る者あり、甚しきは昨夜軍法会議の戸扉を脱し持ち去る、右は物を弁えざる者の所為と思わる、是等も一層取締をなし不都合なき様にすべし」とある。軍法会議の扉までも持ち去るほど、兵士・軍夫たちは寒さに苦しめられていた。
     同書  137ページ



つまり、十分な防寒装備の支給がないために、軍夫による「不品行」な略奪行為も発生してしまうのである(軍夫への冬服の支給はやっと12月2日になってのことであった)。




軍夫は戦争の実行を支えた存在であると同時に、正規軍の兵士ではなかった。


一ノ瀬氏は、以下のように記している。



 例えば、原田敬一がいうように、日清戦争における軍夫の戦死者数が公式に集計され顕彰されることはなかった。だから丸木は自らそれを日記の末尾に書き付けた。


  日清戦役日本軍死亡者は、有栖川宮殿下及北白川宮殿下始め、その数実に一万五四七人の多きに達し、もしこれに軍夫を加うれバ、その数また数千人まさん、この死亡者を区別すれば
  〇戦死一一二五人〇傷死二九一人〇病死八九九七人
  〇死亡者一〇七人 〇生死不明二七人
     〇総計一万五四七人
  右の内死亡者多きは第二師団也、威海衛その外遼東半島を守備して後ち台湾へ赴き、日数多き故なり、第五師団第三師〔団〕に戦死者多きは、遼東〔半島〕にて寒気烈しきに奮戦せる故なり、右に書きしはその当時二年間も毎日官報に出たるヲうつす


 原田は丸木のこの一文について、「物資輸送の根幹を担った軍夫が、戦後忘れ去られた状況への異議申し立てであろう」という(原田敬一『シリーズ日本近現代史F清・日露戦争』岩波新書2007)が、筆者も同感である。
 ただ、やはり軍夫たちのことは急速に世間から忘れられていった。一〇年後の日露戦争では軍夫という制度にかわり、大量の「補助輸卒」が動員された。賃金を支払う必要のない徴兵の一部として、本来あまり兵役に向かない人たちを補充招集し、日清戦争時の軍夫と同一の仕事をさせたのである。今日でも日本軍の補給軽視について語られるさい、「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ歌が持ち出されることがあるが、その輜重輸卒よりさらに下の身分である。第三師団第五補助輸卒隊第一〇分隊所属の補助輸卒だった西村真次なる人物は著書『血汗』(精華書院、一九〇七年)において、自己の日露戦争従軍体験を記している。
 彼らはほとんど訓練も受けず、銃剣一本すら持たされないまま(そのため彼らを「無帯剣輸卒」と称したという)戦場に送られ、「徒歩車輛」を引いて中国人から「呀(アイヤア)、日本苦力(イイベンクリイ)」と言われるほどの辛い物資輸送にあたった。大工、左官から役場の書記、銀行員まで「有らゆる階級の人が集まって」いたあたりも、丸木たち軍夫とそっくりである。西村は『血汗』のなかで、なぜ自分たちが補助輸卒として戦場に行く羽目になったのかについて、次のように書いている。


  由来、二十七八年戦役〔日清戦争〕までは、補助輸卒と云うものはなかったので有るが、同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかったので、「これでは成らぬ」と当局者は早速名案を案出した。その名案の祭壇に捧げられた犠牲こそは、即ちこの補助輸卒であったのだ。


 かつて同じ中国の地で同じ仕事をしていた(『血汗』には、かつて丸木らが荷物を運んだ普蘭店などの地名が出てくる)はずの軍夫たちに対する共感の念はまったくない。丸木が同時代人として、もしこの件を読んでいたら、激怒しただろうか、それとも苦笑したであろうか?
     同書  211〜213ページ




西村真次の記す「同戦役に使った人夫が、不規律で、吾が儘で、繊弱で、到底、繁劇な後方勤務に堪えなかった」との評価は、『兵站勤務ノ研究』にある「荷物ノ擔ケル者ハ十中二三人テ其他ハ分捕ヲ目的トシテ應募シタ者カ多イ韓人夫カ「チホ」ヲ少クモ二俵運フノニ日本人夫ハ其米一俵ヲ両人ニテ運搬スルトイ云フ情ケナイ有様ナルノミナラス清韓人ヲ脅迫シテ種々ノ悪イコトヲスル、酒ヲ飲ム博奕スル、喧嘩ヲスル、梅毒ニ罹ル、凍傷ヲ病ム、仕末ニ了ヘヌ人間テアル、ソレテ喰フコトタケハ一人前ハ確カテアツタ」との評価に確実に照応するものである。

これを、日露戦争時の補助輸卒が軍組織の最底辺で酷使された自身の経験を振り返るに際し、日清戦争時の「軍夫」と比較することで、自らのプライドを維持しようとしたものとして読むことも可能であろう。しかし、軍組織の最底辺で酷使された状況に違いはない。


『兵站勤務ノ研究』では、日本人軍夫は朝鮮人軍夫の能力との比較において非難され、『血汗』においては日清戦争時の日本人軍夫は日露戦争時の補助輸卒との比較において蔑まれているのである。

しかし、そこには確かに、近代の入り口の日本を生き抜こうとする庶民の情けなくもたくましい姿が見出されるはずである。









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