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『標的の村』(2013)をやっと観る

2016/08/09 20:36



 先週末のことだが、ついに、三上智恵監督によるドキュメンタリー作品『標的の村』(2013)を観る機会を得た。身近な(?)ところでは、2014年の「メイシネマ祭」で上映されていたのだが、その年はパートナーの体調不良で出かけるに至らず、今回の2016年8月6日となってしまったのであった。


 お誘いいただいた友人からのメールによれば、


 三上智恵監督「標的の村」の自主上映会を行います。

 会場 : 東京芸術大学 上野キャンパス
 〒110-8714 東京都台東区 上野公園12−8
 大学会館2階 国際芸術創造研究科院生室
 無料・予約不要

 日時: 8月6日( 土曜日 ) 14時〜 18時〜(91分・2回上映)

 *18時上映後には、沖縄高江についてのディスカッションを行います。
 参加者: 川田淳、居原田遥、日高良祐、木村奈緒、毛利嘉孝、元山仁士郎

 共同主催・協力 : DMN研究会(デジタルメディア時代の政治的公共性とナショナリズム研究会)、早稲田大学メディア・シティズンシップ研究所


…という設定の「自主上映会」で、パートナーも伴い、18時の回に参加したのであった。

 猛暑の中、芸大まで出かけたわけだが、10分前くらいに到着してみると、約40人分の椅子が並べられた会場の残り席は少なく、最終的には最前列で床に座る参加者も出るような状況となった(むしろ床座りの方が椅子席後列―私は中ほどの列だったが、画面全体を見ることは叶わなかった―より画面は見やすかったに違いない)。




 作品のスタイルとしては、社会派ジャーナリズムによる正統派ドキュメンタリー映画という位置付けになるだろうか? 実際、作品の骨格となっているのは、琉球朝日放送製作によるテレビ用ドキュメンタリーであるらしい。





 画面に映し出されているのは、非常に理不尽な状況(それ以外に何と言えようか?)に置かれた沖縄県東村高江地区の住民による、彼らをそのような理不尽な状況へ平然と追いやろうとする国家行政当局への必死の抵抗の姿である。

 個々のエピソードの紹介としてではなく、高江地区の住民の置かれた全体状況を要約すれば、「一方的に住民に犠牲を強いようとする国家の統治権力」が一方にあり、それに対し「小数者としての弱者としての彼ら高江地区の住民」がある(少数者=弱者では必ずしもないが、ここでの彼らは少数者であるがゆえに弱者の地位に置かれているのである)。


 あらためて図式化すれば、映像として記録されているのは、


  一方的に犠牲を強いる国家の統治権力に対し、何とか抵抗を試みようとする小数者としての、そして弱者としての高江地区住民の姿


…ということになるだろう。


 国家は人権の保障装置でもある(あり得る)のだが、たとえ民主的に選ばれた(つまり多数者の意思を反映した)政府による統治であっても、法の執行権力としての行政は、それ自身の合理性(あるいは安易さ)を追求する中で、主権者としての市民の意思に反する振る舞いをするものなのである。時にはそれが「圧政」として現実化することさえある。

 我が国の「保守」を自称する方々の想像力からは完全に抜け落ちている問題意識だと思われるが、米国で銃規制に反対する伝統的な保守派にとって、市民の武装の権利は、圧政へと転化し得る政府への抵抗の手段の確保として位置付けられているのである。

 近代の西欧政治思想においても、多数者の意思を反映したはずの政府による圧政の可能性と、その際の市民による抵抗の正当性についての長い議論の歴史がある。

 まさに高江地区住民が直面させられたのは、そのような状況(圧政として現実化されてしまった国家行政の姿)なのである。その意味で、高江地区の住民の行動を、沖縄のローカルで例外的な状況の産物としてではなく、政治思想史的に普遍性をもった問題の典型的事例と評価することも出来る。


 確かに『標的の村』の内容を、文字列として「国家による圧政と闘う市民の姿」として入力変換してみると、私自身、一時代前に流通した陳腐な表現を無自覚に再現して平気な鈍感な人間のようにも感じられてしまう。

 しかし、映像として記録されているのは、「一方的に犠牲を強いる国家の統治権力に対し、何とか抵抗を試みようとする小数者としての、そして弱者としての高江地区住民の姿」以外の何物でもないことは否定し得ない。


 今、現実に沖縄で進行しているのは、一時代前の表現がいまだに通用してしまう現実なのである。

 「保守」を自称する人々の間でならば、「一方的に犠牲を強いる国家の統治権力」と言えば、中国共産党の行使する統治権力の現実が連想され、(サヨク代表の)共産主義者の行為として安心して非難の対象とされるのであろうが、しかし日本の保守政権がその統治権力を行使する際の現実でもあるのだ。

 このドキュメンタリー作品に、高江地区の住民に対し「一方的に犠牲を強いる」日本の統治権力として記録されているのは、第一次安倍政権とそれに続く自民党政権であるだけでなく、(「保守」を自称する人々からはサヨク政権として位置付けられている)鳩山氏や野田氏に率いられた民主党政権(鳩山政権時には福島瑞穂党首の社民党も連立政権を構成していた)の時代でもある。


 沖縄県国頭郡東村高江地区の総人口は(2010年の国勢調査時で)、66世帯の142人である。つまり、住民の絶対数が少ない地域なのである。

 その高江地域を米軍の「北部訓練場」(ジャングルでのゲリラ戦を想定した海兵隊の訓練施設)が取り囲んでいる。その敷地の部分返還と引き換えに、(字義通りにはヘリコプターの着陸用施設だが、実際にはオスプレイの利用が想定されている)ヘリパッド移設が日米間で合意され、実行されようとしている。しかし、高江地区の住民にはまったく事前説明がされていない。それがドキュメンタリーの冒頭の2007年の状況である。

 ここで象徴的なのは、事態の経緯が示す、「実行」の主体となる防衛施設局の側が、住民への事前説明を必要と考えず、ましてや住民への説得・合意形成への努力の必要など考えもしなかったという事実であろう。明らかなのは、国家行政の最前線に位置する沖縄防衛施設局が、絶対数の少ない住民の意思を問う必要を感じなかった、あるいは必要は感じたにしても無視することの方を選んだという事実である。

 それだけではなく、防衛施設局は説明を求めて抗議行動をした住民を「通行妨害禁止」の仮処分の対象として裁判所へ申し立てることまでする。ここで沖縄防衛施設局に代表される国家は、絶対数の少ない住民に対して説明責任を果たし説得・合意形成への努力をすることではなく、いきなり住民を司法の場へ引き出す恫喝的手法を選んだことを意味する行為である。ここで沖縄防衛施設局は、絶対的な少数者としての住民に対する「説得・合意形成への努力」のポーズさえ必要とは考えなかったのである。そこに「一方的に犠牲を強いる国家の統治権力に対し、何とか抵抗を試みようとする小数者としての、そして弱者としての高江地区住民の姿」という構図が成立することになる。

 これを、沖縄県の東村高江地区の遠い出来事として、他人事として考えてしまう(というか考えもしない)のは、民主主義制度を維持する上では危うい事態である。この状況を容認してしまえば、やって来るのは、「保守」を自称する皆さんの非難する中国共産党の支配する世界と大して違いのない社会である。

 帰宅後に住民側のサイトで確認したのだが、防衛施設局による「仮処分申請」の際に示された住民による「妨害行為」としては、「ブログで座り込みを呼びかけ」や「ヘリパッド反対のイベントを開催」、「DVD・ポスターなどを制作」どころか「防衛局に建設反対の申し入れをしている」ことまでもが含まれているらしい。どれも、社会を民主的に維持していく上で欠かせない行為である。このような政府の主張を容認してしまえば、中国による占領支配への心配をするまでもなく、中華人民共和国の人民と違いのない世界に暮らすことになるのだ。「保守」を自称する皆さんにも、大いなる危機感をもって、高江地区住民を支援して欲しいと思う(註:1)。


 



 工事作業開始により高江地区でのヘリパット設置反対運動の映像記録が始められた2007年は第一次安倍政権、高江地区住民の行為が国家によって告発され住民が裁判所に引き出されたのは2008年の麻生政権時、司法の場での国家による住民告発を継続させた(取り下げることも可能であったにもかかわらず)のは普天間基地の県外移設を掲げた民主党の鳩山政権時(註:2)で、まだ社民党が連立を組んでいた時点(その後、辺野古への移転―県外移設の断念―の閣議決定を拒否し連立解消)であるし、ドキュメンタリー後半の中心エピソードとして展開されるように、(普天間基地への)オスプレイ導入反対運動を圧殺したのは民主党の野田政権である。

 どちらが与党であっても、絶対的な少数者である高江地区住民の意思を無視することに問題はないと考え、日本全体からすれば少数者である沖縄県民の意思を無視することに問題はないと考えている、ということなのだ。


 政権与党(現在は自民党)は日本国民の多数の支持を受けているのであるし、それに次いで支持を得ているのは野党第一党(かつての民主党―現在は民進党)である。いずれの政権下においても、その政策は国民の多数に支持なしには成立し得ない。

 高江地区住民の意思を無視し、沖縄県民の意思を無視する主体は、主権者としての日本国民の多数なのである。



 『標的の村』を観て悲憤慷慨するのは簡単だが(もちろん「悲憤慷慨」は自然な心情の流露であろうが)、その際に「日本政府が悪い!」と言い募るのも実に簡単だが(それが理路として成立しないわけではないにしても)、「悪い日本政府」を背後から支えているのは国民の多数者なのである。ここに気付かずにいる限り、安心して悲憤慷慨し、心情的正義感に浸って日本政府を糾弾し続けていられる。

 しかも国民の多数者は、高江地区住民の意思を無視してよいと考えているわけでもなく、沖縄県民の意思を無視してよいと考えているわけでもない。そもそも日本国民の多数者は、高江地区住民の払わされる犠牲など眼中にないし、沖縄県民に押し付けられている過大な米軍基地負担にも無関心なのである。








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 「民族」としての「沖縄の人々」 (琉球國の「独立」と伊江朝直 9)

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【註:1】
  ここに面白い調査がある。沖縄県知事公室地域安全政策課が2013年6〜7月に行った「沖縄県民の中国に対する意識調査」である。
  それによると、「中国に対する印象」では、「良くない印象を持っている」と「どちらかというと良くない印象を持っている」が合計で89・4%。その理由のトップは「尖閣諸島を巡り対立が続いているから」が65・1%である。一方、全国調査はそれぞれ90・1%、53・2%である。しかも、「中国と米国でどちらに親近感を覚えるか」では、「中国により親近感を感じる」3・5%に対し「米国により親近感を感じる」59・1%である。全国調査はそれぞれ5・8%、56・1%である。
  辺野古移転反対や反基地運動感情が強いことから、中央政界やメディアでは、「沖縄は反米親中」という見方が強いが、現実はまったく異なる。沖縄は尖閣諸島問題に代表される中国の対日圧力の最前線なのである。そして親米感情も全国平均より高いのである。沖縄が反発しているのは政府や「東京の目線」に対してであり、その感情的な基盤が日本全国から反政府的な活動家まで吸引してにっちもさっちもいかない状況を作り出しているのである。
http://www.nippon.com/ja/genre/politics/l00074/


【註:2】
  しかもひどいことに、県外移転が非現実的とわかると、民主党政権はさっさと公約を取り下げてしまった。それだけでなく、なんと民主党政権下で強硬推進が可能になる法改正が行われるのである。地方自治法では、都道府県知事、教育委員会、選挙管理委員会の判断や業務が、法令に違反している、または適性を欠き公益を損なうと国が判断した時、国は是正の勧告や要求を行えることになっているが、これまで、これには強制力はなかった。地方自治体側から国地方係争処理委員会への審査申し出が出来るだけで、国側からそれ以上、働きかける手段はなかった。2012年9月に公布された地方自治法の改正で、国による違法確認訴訟制度が創設され、司法的な手段で地方の「不作為」を排除できる道ができた。もちろん、改正は民主党政権以前からの流れであったが、これで国と地方の関係は一変する。
http://www.nippon.com/ja/genre/politics/l00074/









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