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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)

2017/07/04 19:49


 前回記事の書き出しは「昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて」であったが、「多摩」と「武蔵野」をどのように使い分けるのかについて(どのように使い分けられているのかについて)、あらためてここで記しておきたい。


 「多摩」と「武蔵野」を政治的な行政区分の視点、すなわち人間にとっての「歴史」の問題として捉えるか、「人間にとっての歴史」のいわば基底となる自然史の問題、具体的には地形的特質の問題として考えようとするのかで、「多摩」と「武蔵野」は用語として異なった様相を示す。

 歴史的には、古代においては「多摩郡」は「武蔵の国」の一部であった。すなわち「多摩」は「武蔵」に包含される地域名称であった。

 近代における行政上の名称としては、北多摩郡と南多摩郡と西多摩郡によって構成される「多摩」地域が東京府下であった時代から東京都下となった時代(昭和18年より)を通して、「武蔵」の語を冠した「武蔵野」は広域名称としてではなく、「北多摩郡」内の「武蔵野町」(現・武蔵野市)を表すものとして用いられるものであったし、「武蔵小金井」駅は同じ「北多摩郡」内の「小金井町」にある駅名であった。すなわち、「武蔵」を冠する行政上の地域名は「多摩」に包含されるのである。


 一方で、自然史の視点から東京府下及び東京都下の「多摩」地域を語るとすれば、「多摩」地域の中心に位置するのは「武蔵野台地」であり、その南に流れるのが「多摩川」であり、「多摩川」の南岸の丘陵地帯が「多摩丘陵」と呼ばれる。

 ここであらためて、この自然地形と星野朗氏の論考に示された、「4つの地域」の関係を整理してみよう。再び星野論文から引用すれば、


   ”霏¬遏三鷹・田無・保谷を中心に、中島飛行機株式会社を核に、航空機用発動機を組立生産した地域、また横河電機や日本無線など電気や通信機器の組立生産を主とした地域で、部品・下請企業は近隣地域から大森・蒲田・品川など遠く京浜地域にひろがる。
  ◆‐平・国分寺・小金井・調布・狛江にわたる地域で、,涼楼茲瞭遒叛召卜拈椶垢訝楼茵,△襪い和召判鼎覆蠅△Δ、東京重機工業や中央工業南部銃製作所など造兵廠と結ぶほか、多くの民間企業が多様な兵器を生産した地域。軍事施設も多い地域。
   立川・大和・昭和・拝島を中心に、立川の陸軍飛行場と航空廠を中心に、陸軍用航空機組立の立川飛行機株式会社と発動機生産の日立航空機株式会社を中心とする地域と、海軍機用航空機組立の昭和飛行機株式会社との二つの航空機生産地域がある地域。
  ぁ”榁罅ζ野・町田・稲城など多摩川に沿い、また多摩丘陵にかかる地域で、軍用車輛・戦車・砲弾や火薬などが目立つ製品となり、日本製鋼・東京芝浦電機・日野自動車など民間企業が板橋や相模など陸軍造兵廠とかかわりをもち生産を続けた地域。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学』 第105号 1998 122〜124ページ


このように整理されていたわけだが、,良霏¬遏三鷹・田無・保谷、△両平・国分寺・小金井・調布・狛江、の立川・大和・昭和・拝島、こららはすべて多摩川流域の北側に形成された武蔵野台地上にある行政地域の名称であり、い良榁罅ζ野・町田・稲城の中でも日野・町田・稲城のみが多摩川の南側の丘陵部(多摩丘陵)を含む行政地域である。 銑とい涼罎良榁罎亘迷針犒瓦紡阿掘日野・町田・稲城は南多摩郡に属す地域である。


 あらためて、平坦な台地上の北多摩地域と多摩川南岸丘陵部にある南多摩地域に、それぞれの地形を活かす形で(それぞれの自然的景観の上に)、多摩軍産複合地帯が昭和10年代を通して形成されていったことが理解されるだろう。




 ここからは、△涼罎任盡宗小平市を中心とした地域について、より詳細な検討を加えてみたい。


 小平市の名称である「小平」は、その母体となった開発新田である「小川村」の「小」と、地形的平坦さを表す「平」の組合せによるものだとされている。

 小平市内には、東西方向に(西側を上流として)「玉川上水」と呼ばれる江戸期に開削された水路(上水道)が流れている。この人工水路の小平市付近での西端と東端の高低差はおよそ20メートルを超えるが(西端の小平市中島町付近で標高約98メートル、東端の小平市御幸町付近で標高約72メートル―ただし電子国土Webを用いての付近地表面のおおよその数値)、その間の距離は約7キロメートルなので1000メートルあたりの標高差が約3メートルとなる。小平市内は南北方向にも標高差はなく、ちなみに、取り入れ口の羽村から終点の四谷までの距離が43キロメートルで標高差が約100メートルとされているから、先の数値がどこまで正確なのかは確言出来ないが、少なくとも小平地域の地形の平坦さについては把握し得るものと思う(小平市内の南北方向の標高差についても同様である)。市内に高地は存在しない―この近辺で「山」と呼ばれるのは「雑木林」でのことである―が、古い水源の痕跡は存在し、周囲より土地が少し低いことでかつての流域が想定可能である。

 

 その平坦な地形上に、傷痍軍人武蔵療養所、陸軍技術研究所、陸軍経理学校・練兵場、陸軍兵器補給廠小平分廠といった軍事施設が設立されたわけである。




 ちなみに、武蔵野美術大学は武蔵野市(吉祥寺)が発祥の地であり、多摩美術大学が開校したのは世田谷区上野毛で、どちらも武蔵野台地上である。

 現在の武蔵野美術大学のキャンパスは平坦な小平市内にあるが、平坦に見える地形の中に微小な高低差があり、かつての水源の存在を想像させる。

 多摩美術大学は八王子市内にもキャンパスを開設したが、こちらは微小ではない高低差の中に、そこが多摩丘陵地域内であることを(そしてかつての南多摩郡内にいることを)実感させられる。


 この際だから付け加えておくと、武蔵野音楽大学は存在するが、多摩音楽大学は存在しない。

 






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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2017/07/04 22:08
    「多摩」と「武蔵野」をネタに…

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2017/07/04 23:21
    少し手を加えて、
    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてもアップ。


     軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (3)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-0537.html

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2017/07/05 10:58
    「武蔵野台地」の形成過程と地形的特質について、
    文字情報だけではわかりにくいので、概説と画像をこちらで↓

     武蔵野台地と野川公園
     http://www.geocities.jp/yamanekoforest/noyamaaruki/musasinodaiti.html

  • Comment : 4
    やわらか☆不思議猫
     2017/07/07 11:19
     文豪の時代の小説には、武蔵野が本当に「野」として登場する、という印象(単なる印象であって事実は確認せず)があったのですが、それがこの時代に急速に「野」から違うものに変わったということですにゃ〜(-.-)
     開発可能であったということは、それまではやっぱり野であり続けていたのでしょうね〜

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2017/08/01 14:33
    >開発可能であったということは、それまではやっぱり野であり続けていた

    小平近辺でいうと武蔵野美術大学とか津田塾大学とか、
    「東京の大学」に入学したはずの地方出身者が、
    「まわりは畑ばかり」という現実に直面させられた話は有名。
    (つい最近まで)
    (その「最近」の調査でも、津田塾大学構内でタヌキの家族の棲息判明)

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