umasica :桜里さんのマイページ

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7) 前

2017/09/20 19:42




 前回(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」)は、昭和10年代後半の小平地域の軍事関連施設地帯化(戦時開発)と人口増(『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しが用いられている)、そして住宅営団による軍事関連施設の関係者(従業員等)への住宅供給について触れた。大規模施設の移転・開設は、施設関係者用の住宅供給という課題の解決の必要性として立ち現れることになる。最終的に「戦時の人口の急増」として、地域社会のあり方へも影響することになる。再び『小平市史』から「住宅営団」について引いておこう。

 

  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
     (『小平市史』 2013 286ページ)

 

 

 今回は、その中の仲宿住宅に焦点を当てるところから始める。

 

  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286〜287ページ)

 

 陸軍兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅として計画された営団住宅である(「住宅営団」の計画・建設した戦時集団住宅は、基本的に職住近接の立地を特徴とし、その意味で小平地域の営団住宅も例外ではない)。取り上げるのは、「完成は敗戦後になった」仲宿住宅の「戦後」のエピソードである。

 

 

  太平洋戦争により荒廃した国土、東京の復興に、また戦災者の救済に国民がこぞって立ち上がり、昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました。
  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えず、やむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。
  各地区代表者によって給水事業計画を作成して、「小川給水組合」として発足すべく努力を重ねましたが、施設費用等の負担問題で組合結成がならず、対外的には「小川給水組合」として各地区代表者(発起人)が経営にあたることになりました。
  昭和28年12月、関係部落自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し「小川水利協会」を結成して昭和29年1月より新機構によって運営されることになりました。
  当時、役員は水道事業の重要性にかんがみ、任意団体の運営では住民の福祉向上に資するためには非常に困難な点が多いので、水道施設を町に移管し、町営水道として経営すべきであるとの意見の一致をみたので、その体制整備に進みつつありました。
  昭和33年「小川水利協会」から、給水人口の急増と施設の拡張、地域住民の福祉の増進を考慮して、町営として水道事業経営が望ましいとの陳情をうけて、町理事者並びに町議会で調査検討を行い、昭和34年3月の定例議会で小平町営水道事業として経営することに決定しました。
     (『水道事業概要 昭和58年』 小平市水道業務課・工務課 1983 2ページ)

 

 本題に入る前に、「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」との記述の正確さの程度について指摘しておきたい。

 

  もちろんこうした住宅の絶対的な不足の状況のなかで、政府の住宅対策がなかったわけではない。一九四五年九月、罹災都市応急簡易住宅建設要綱が閣議決定された。罹災者の越冬対策として、国庫補助により「最モ簡素ニシテ且大量生産ニ適スル」簡易住宅三〇万戸を建設するとしたが、年内に建設されたのは四万三〇〇〇戸にすぎず「恐るべき不良住宅の集団建設事業」とさえいわれた。この政策の一環として建設が促進されたのが宇う宅営団の仲宿住宅であった。この営団住宅は、もともと兵器補給廠小平分廠の従業者向け住宅として、一九四三年ごろから建設が進められていたが、何らかの事情で中断し、さきの住宅難対策のもとで四五年一二月から建設が再開された。その結果、六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸からなる団地が完成し、新築部分には四六年四月から入居が開始された。また同じ頃、営団旭が丘住宅も完成している。なお住宅営団は一九四六年末に解散したため、それらの住宅は四八年七月から分譲された。
     (『小平市史』 377〜378ページ)

 

こちらでは、「新築部分には四六年四月から入居が開始された」とされており、1946(昭和21)年の時点で「入居が開始され」ているのだとすれば「昭和22年に当市においても、小川仲宿地区に旧住宅営団が248戸の建設に着工しました」ということにはならないだろう。総戸数については、『水道事業概要』の248戸と、『小平市史』の「六畳・三畳二間の八軒長屋四棟と、六畳・三畳・三畳の三間(九坪)の一戸建て二一六戸」(八軒長屋が4棟で32戸、それに一戸建て216戸で総計は248戸)は、戸数として同じであり、どちらも確かに住宅営団による「仲宿住宅」についての記述と判断し得る。

 いずれにせよ、

 

  生活用水は、浅井戸32井を施設しましたが、当該地区は地下水が深くほとんど使用に耐えずやむなく居住者は隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸から個々に「水運び」をせざるを得ませんでした。その後、関係者の好意により仲宿住宅街の中央部まで1本の給水管が延長され、共同水栓が設置されました。しかし、居住者の増加によりこれのみに頼り得ず、仲宿居住者組合で対策を検討した結果、坂北、旧兵器廠小平分廠の給水施設の利用を考え、坂北、本町、旭町地区の代表者賛同の下に、大蔵省東京財務局に使用許可を申請した結果、昭和24年8月に使用許可書が交付されました。

 

この太字化した部分からは、戦後に完成した営団住宅には満足な給水施設がなかったこと、そして問題解決のために、当時には「厚生省職業補導所」となっていた旧・東部国民勤労訓練所の「深井戸」からの水に加え、「旧兵器廠小平分廠の給水施設」に頼ることとなった事実が読み取れる。

 旧・東部国民勤労訓練所及び旧・陸軍兵器廠小平分廠は共に、『小平市史』では地域の「軍需工業化」の関連施設として位置付けられていたものである(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)。その施設内に存在した給水施設は、小平村あるいは小平町(すなわち地域行政)の用意したインフラとしての上水道・給水施設ではない。戦後に仲町住宅の住民が頼りとした軍需工業化関連施設内の給水施設は、「開発事業主」としての厚生省、そして陸軍が自ら自身のために用意したものなのである。

 







Tags: なし
Binder: 現代史のトラウマ(日記数:666/全体に公開)
Gg[ubN}[N
最新コメント

このブログにコメントをつけるには、ログインする必要があります。
マイページをお持ちでないひとは「マイページを作成する」ボタンを押してマイページを作成してください。
不適切なブログを見つけたら、こちらからご報告ください!

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


http://www.freeml.com/feed.php?u_id=316274&f_code=1



Copyright(C)2017 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.