[Japana novaj^o]英語の早期教育と外国語でしゃべりたいこと(nur Japenlingve)
弟が中学校の英語の教師をしているので、彼はどう考えているか問い合わせ中である。
英語の早期教育
教育産業としては、個人的には面白さと気に入らなさとが半々のベネッセだが、教育情勢についての記事は比較的わかりやすくて興味深い。そして少し物足りない。あるべき教育をぶつようなものではなく、受験競争に対する反発感とあきらめ、そしてそれでも参戦するからにはわが子にはそこそこ勝ち抜いてほしいという親の気持ちや立場に沿った内容であるからだと思う。
さてそのベネッセの記事
小学校英語の必修化、保護者の立場から気になること(1)[英語レポート]
小学校英語の必修化、保護者の立場から気になること(2)[英語レポート]
そして、2006年現在、9割の小学校で英語が教えられているとのこと。当の小学校の先生は、小学校の低・中学年から英語を教えるのが良いと考えておられるらしい。
「すべての子どもが大人までに身に付ける必要がある英語力は、どの程度だと思いますか」とたずねた結果です。「挨拶や簡単なやりとりなどの平易なコミュニケーションができる程度*1」が49.6%で最も多く、「日常生活において通常のコミュニケーションができる*2程度」が37.3%で続きました。「必ずしもすべての子どもが英語を身に付ける必要はない」は8.8%と少なく、先生方も英語の必要性は感じているようです。必修化にむけて、解決すべき課題が多いのが現状ですが、小学校の先生方もこれからの時代における英語の必要性を感じているのは確かなようです。
http://benesse.jp/blog/20070131/p2.html
という。まあ、校長だとか親だとか「世間」からの要請が強ければ強いほど、小学校の教員の感じる「必要」なんて強くなるに決まっているだろうけどね。当の小学校の先生は、自らに英語が必要だと痛感するような場面は日常では「全くない」に「限りなく近い」と思うね。
そのほかの、ベネッセのネット上閲覧可能な英語教育の記事はこちら。
なんのための英語か
結局、なんで小学校の教員が英語の必要性を感じているかは、上の記事からはわからなかった。漠然と、「国際」「中国」「韓国」「将来」から、強迫的に「英語は必要」という不安感が導出されているように思える。
もっとも、別の記事では「日本の英語教育の目標は『仕事で英語が使える人材の育成』」である、と政策上の目標が紹介されているようだ。
さて、どんな勉強でも、学習に割いた時間や費用が「学力」や「成績」にストレートに反映するわけではないが、逆に時間や費用はストレートにではないが「学力」や「成績」に反映するものだ。
学校がそうした、計測・評価可能な、進学や出世にとって価値的な科目に力を入れれば、そこで「格差」が生じるし、逆に学校が力を抜けば、これまた学習塾や進学塾に行く・行かないで「格差」が拡がってしまう。もう、学校とは「人生に格差をつけるところ」というのが本質的な機能ではないかとすら思えるほどだ。さらに、昨今の「貧困」の広がりで、ますます教育格差は拡がっているだろうし、親の焦りとあきらめも糜爛したような感じになったりしちゃったりして。
どんな仕事で「英語が使える」とヨイか。
アジアの貧困国からの出稼ぎの人たちや、アメリカの貧困層・移民たちが、トラックの運転やら・労務やらで、イラクの米軍基地で労災保険なしの派遣労働に従事しているという*3。そんなところで「日常の指示命令や雇い主の意向がわかる」程度の英語とかいうのが、こうした人たちにとってギリギリの生活がかかった「英語」なのだ。NHKでやっていたような*4(見るのがつらくて見なかったけど)、シンガポールへの出稼ぎ労働者たちも、もしかしたら英語で働いていたかもしれないね。
これから、アフガンに増派されるような米軍にくっついていったり、アメリカの国債をうんとこドルで買い込んで、それが紙くずになったとき、英語がわかったほうが良いかもしれないね。「日常のやりとり」ができるくらい。
エスペラントを勉強してもしゃべることがない。
朝日新聞はとっていないけれど。
2009/01/26 朝刊の「ひと」欄の「マルカリアン君枝さん(71)」
…転機は東京五輪を機に学んだ国際言語エスペラント語だ。
66年、貯金をはたいてブダペスト世界大会への参加を決めたが、問題は何を話すか。華道、茶道など日本文化をエスペラント語で紹介する友人らの中で「自分には何もない」と落ち込んだ。だが、本番で思い切ってやったそろばん教室が反響を呼び……
http://park23.wakwak.com/~f-soroban/markarian.html
ということは、1937年生まれとして、東京オリンピックは1964年の27歳、29歳で世界大会に参加、ということか。
これに関連してというか、反応して面白い人たちが面白いことを書いている。面白いというのは、「つまらない」という意味ではなくて、interesa という意味で。
英語ぎらいの大人のための飛ぶ教室
この記事を読んで私が改めて思ったのは、
自分のことを伝えたいと思わなければ、いくら言葉を学んでも、いろんな体験をしても、言葉は役に立たない、ってことです。君枝さんの場合は、……話すことが無いと悩む前は、自分が長年やってきた「そろばん」のことも、人に伝えたいとは思いもよらなかったんです。自分のことを伝えたいと思うことからスタートして、いろんなことが生まれてくるのだと思いました。
http://flyingclassroom.blogzine.jp/tobukyoushitsupark/2009/02/post_bcc1.html
コメントも、交々(こもごも)と面白い。
宣伝ではないけれど、この「飛ぶ教室」は英会話学校らしいのだが、その思想と結びついた「教授法」も僕には好感が持てる。
もちろん、特定分野の学術論文を読んで考えたり、意見を交換したりするには、そのための単語を沢山知ってなきゃならないけれど。ノーベル賞のためにはやっぱり会話もできたほうがいいか。
にらみ合ったり・目をそらしあったり
僕もエスペラントをしゃべる機会はほとんどないし、しゃべる機械も持ってない(パソコンへのインストールはうまく行かなかった)。
いきなり、日本語の分からないエスペランティストと向かい合っても、やっぱりしゃべることがないし、聞きたいこともあまりない。エスペラントとは言え、早口だとわからないし、単語を知ってないとやっぱりわからない。
「どこから来ましたか?」
「いつ来ましたか?」
「何が一番好きですか?」
「食べ物では?」
「場所では?」
実は、とっさにこれらの質問をするのもすごく難しい。さらに、このあと会話を続けるのもすごく難しい。このあと、見た目で明らかに異人種*5で日本語が分からないこの外人に対して思いつく言葉は、
「いつ帰るの?」
くらいしかないのである。それではあまりに失礼なので、あとは黙って、にらみ合ったり・目をそらしあったり。
『(ああ、誰か来ないかな)』
ふん。今日は少し面白いことを書いたと思う。
*1:だいたい、この「平易なコミュニケーション」とか、「あいさつ」とか「日常生活において通常」というのが、わからん。じゃあ、「行ってきます」とか「ただいま」とか、「今日のおかずは何」とか「そこの漬物とって」とか「ちょっとあんた、醤油のかけすぎ!」とか、「今日はね、学校でほめられて、次のタイクの時間張り切りすぎてコケてしもてん」とか、あんたら話せまっか? わてなんかいっこも英語では話せませんが。
*2:そんな「英語」な「日常」というものは今の日本にはありません!
*3:ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)
*4:沸騰都市 第7回 シンガポール
*5:見た目で異人、という圧力は日本人にはものすごい強いものがあると思う。見た目が完全に外国人なのに、日本語をしゃべると一気に距離感が縮まったりするのは日本人以上である。日本人っぽい人が日本語をしゃべっても別に距離感は変わらないし、その日本語がヘタだったら逆に距離を感じてしまう。あれ、このひと韓国の人? それとも中国? やっぱり欧米崇拝というのがあるのだろう。
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