正法眼蔵独善読解 第1回 現成公案 1
『正法眼蔵』を読みながら、自分の言葉に変換して解読したいと考えたのは、三十路に入る前だったから、もう40年ほど前のことになる。高校では古文が落第点だったおかげで、原文で読むのは、かなり辛いものだったが、日本語で書かれた優れた作品は、細かな内容は判らないにしても文章全体から訴えてくるものがある。
当時、河出書房などから古典を現代文にした全集が出ていたのも幸いした。その中に『正法眼蔵』は所収されてはいなかったが、中山義秀訳の『平家物語』と、尾崎士郎訳の『太平記』を読めたのは幸いだった。それが、日本中世文学の読み方を知るきかっけとなったからだ。
こういう余談は今後の各所で触れることにして、さっそく『正法眼蔵』の初巻にあたる「現成公案」の冒頭を変換してみる。
すべての現象は自然の理法によって規定されている。理法によって齎された現象として迷いや悟りがある。迷うとは悟るとは、何なのかを知ろうとするとき、修行があり、生があり、死があり、悟り得た人あり、悟り得ない人がある。
自然の理法のもとで自己を直視すれば、時間が創造の産物であることが判明するように、すべてが幻想である。惑いなき者も悟り得ない者も実体はないのだ。生も死も実体はなく空である。諸々の存在現象の本質は実体はないものであって、実体ではないことが存在の本質なのである。
自然の理を知ってもわれわれにはどうにもならないことも多い、花は惜しんでも散り、草は厭うても生い繁ることは、誰しもが知ることである。
一見、経験論者の語るア・ポステリオリな論調が展開しているかに見えるが、自然の理法をもとに展開する箇所には、ア・プリオリが伺い知れる。いや道元の世界を、このように二元的に解釈するのは間違いであろう。
ここで言わんとすることは、自然を思惟で計るのでなく、自然という法のもとに存在するという実感を把握することにある。その結果として産まれた認識は、人間の思惟世界を形成するものであるが、実体がないことを同時に把握しなければ、智慧は完成しない。
道元は、透徹した自然認識の持ち主なのである。
自然の観察の結果、存在現象に実体がないと言うのは、仏教そのもの認識であるが、ここまで仏教の本質を日本語で明らかにしたのは、日本の文献の中ではこれが最初のものとなるであろう。
この考え方は、二元論の克服に向かう西欧哲学と非常に似通っていることは興味深い。
道元は、無神論者だったのでないかと思わせる文章も、『正法眼蔵』の他の箇所では散見する。
そして、仏教者たちを愚か者と各所で罵る言葉も数多く見られる。それは彼が学んだ中国(当時は宗)の先代の高僧にまで及ぶ。「間違ったことは間違っていると言う以外に何もない」というのが、道元の姿勢であった。
これらについても、今後追求していきたいと考えている。
最後に原文を掲げるが、先の変換文が余計な言葉を追加していることがわかるだろう。これは、行間から読み取ったものを書き加えた結果である。今後もこの体裁で続編を書いていく予定である。
諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。
萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。
佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。



読み込み中...



