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東京自由大学の講座「身心を調えて、もって仏道に入るなり」に参加しました

2016/02/08 17:14

 昨日は、東京・神田にあるNPO法人東京自由大学(まもなく」自由が丘に移られるそうです)でおこなわれた、藤田一照師と梅野泉さんの「身心を調えて、もって仏道に入る」に参加してきました。

 藤田一照師は、曹洞宗国際センター所長。ながくアメリカで坐禅の指導をされていて、そこでの試行錯誤から生まれた実験的な坐禅の指導法は、NHKこころの時代でも放映されて話題を呼びました。藤田師にはじめてお目にかかったのは、インド・デリーで釈尊成道2600年を記念しておこなわれたGlobal Buddhist Congregation 2011に参加したときで、藤田師は日本人部会発表者のお一人として参加されていました。

 梅野泉さんは、日本にチベット仏教が紹介されはじめた頃から教えを受けられている方で、私が教えを受けた何人もの師としたしくされています。踊る詩人、ダンシング・ポエットととして幅広く活躍されている方です。

(懇親会の席で。うしろで歌われているのは東京自由大学理事長で、「神道ソングライター」の鎌田東二先生)


何も見ずに記憶だけで書いているので、正確な紹介ではなく、私の面白いと思ったこと、記憶に残ったこと、考えたことで、お二人のおっしゃったこととは隔たりがあったり、ゆがみがあるとは思いますが、
 藤田師は涅槃について、囚人の釈放を例として、何からの自由なのか、何への自由なのか、ということを問題提起として話されたうえで、タイトルの(正法眼蔵随聞記にあるお言葉だそうですが)「身心を調えて」の「調」をどう現代語におきかえるか、「ととのえる」と言う言葉には、調える主体があるようでしっくりこない感じがあった、ということから、仏道は、タスク・センタードであってはならない、ハート・センタードでなければならない、というお話をされました。
 梅野さんは、それを踏まえて、ご自分がさまざまなチベットの師から受けた教えを、知識として紹介するのではなく、ご自分が受けたときの生々しさ、感覚をよみがえらせて...、それを会場にいる人に伝えようと、さまざまに試みられました。


 梅野さんが話された、チベット仏教のセム(心)とセムニー(心の本質)の違いというのは、藤田師のタスクとハートに対応しているはずのもので、仏教用語でいうと、「妄分別」をおこなうのがセムで、それに対してセムニーは、無分別、(正法眼蔵の)正、(妙法蓮華経)の妙、不可思議に関わるものです。

 藤田師が冒頭で話された、何への自由、ということの、「何へ」が実は曲者で、目指すものがなければ道を歩みませんが、何か目的地を想定して、それに向って歩めば、それはすでにわかっている場所に行く、タスクにしかなりません。
 道元禅師が正法眼蔵で、まださとっていない人が、さとりとはこういうものである、と思っているようなものでは絶対ないのがさとりだ、ということをおっしゃっていたと思いますが、それはそのことをおっしゃっています。
 仏教は師匠がいないとだめ、というのもそのためで、「修行しろ」と怒られ、修行したら「馬鹿もん!」と怒られて、わかっている目的地へ行こうとする(それが仏教では迷い道に入ることなのですが)私たちを「正しい」道(つまり不可思議、見たない場所への歩み)に引き戻してくださいます。
 梅野さんが触れられたチベットの「ゾクチェン」というのは、西洋社会で(日本でも)有名になってしまい、チベット仏教に関心をもった人の多くが実践したいと思うものになっていますが、本来は、ゾクチェンの師は、狩人だっだり、村医者だったり、乞食だったり、お寺の仏教の先生だけれど(誰にもいわずに実は)ゾクチェンの先生でもあったりする存在で、私はゾクチェンの師です、とか、ゾクチェンを教えます、とおおっぴらにいうようなものではありませんでした。ある方にお聞きしたのは、お寺で、師匠が、これは、という人を見つけると、自室に呼んで、これを習ったとは誰にも口外するな、と口止めしたうえで授けるのが本来のゾクチェンや新訳派のマハームドラーで、食べ物屋さんの、お品書きには載っていない裏メニューのようなものだったそうです。
 チベットのゾクチェンやマハームドラーというのは、梅野さんの話されたセムニー、心の本質を理解してそれにとどまる実践で、なんでその(すくなくとも藤田師・梅野さんのお二人が、それこそが仏教だと熱く語られる)仏教の心髄が裏メニューになってしまうかというと、
開祖がはじめてであった新しいものが、それが表現され、受け継がれると、たちまちタスクに変わってしまう、という問題があるためです。仏法は生もので、鰯や鯖のように足が速いのです。


 昨年話題になった『アップデートする仏教』の仏教1.0と3.0も、別に日本仏教が1.0で藤田師や山下師が教えている内容が3.0ということではなく、お釈迦さまも、弘法大師も、親鸞聖人も、道元禅師も、なにか、思いもつかなかったもの(それが不可思議という言葉の真の意味です)に触れられて、(昨日、梅野さんがなさったように)言葉を超えた体験を、なんとかして伝えようと必死に努力されたのですが、その言葉を受け継ぎ、伝えようとした瞬間、それは生ものから剥製や、腐ったものに変じてしまいます(そのことを手をかえ品をかえ、説かれたのが、道元禅師の『正法眼蔵』です)。


 昨日の講座では、お二人とも、近代というのがタスク・センタード重視の時代で、それに対して仏教は古代的だということをおっしゃっていましたが(もちろん、それを誤解しない人がそこに集まっていたわけですが)、それは歴史上の昔の社会ということではありません。
昔の社会には、現代のタスクとは違う別のタスク、因習があり、お釈迦さまは、インドでは昔も今も根強いカースト制度がありますが、社会が変動してそれが一瞬ゆらいだそのときにあらわれられました。
折口信夫が自分の学を「古代学」と呼んだときの「古代」がそうであるように、「古代」というのはそれまでなかったものが初めて現われた瞬間、originということです。「古代」というのは新しいものが生まれた瞬間です。
 西洋社会で禅を象徴する言葉として知られているビギナーズ・マインド(実はこの言葉は、ご自身もパイオニア、それまでなかったものに触れられた世阿弥の「初心忘るべからず」に由来しますが)とは、その、それまでなかった、自分の思いを超えた新しいものとの出会いを指しています。

 うだうだ書いていますが、自分のなかだけで完結していると、すぐ腐臭を放ちはじめ、しかもその臭さになれてしまって気づかなかったりするので、ひとの話を聞く、というのは本当に大切で、(文字通りの意味での)有り難い機会だなあ、とつくづく思いました。


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