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ダライ・ラマ法王の入菩薩行論講義(一日目)

2016/05/30 16:31

 古代インドの高僧シャーンティデーヴァ(寂天)が著した『入菩薩行論』は、インド・チベットの伝統で、いかにして仏陀の境地を目指すかを学ぶための論書として、重視されてきました。

阿含経典には、私たち凡夫がいかに輪廻の苦しみから脱するかについて説かれています。大乗経典には、仏陀の境地や、それに至るための実践である六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)が説かれています。

しかし、六波羅蜜はお釈迦さまが前世におこなった善行の数々(前世物語=ジャータカに説かれている)に基づくものであり、たとえば布施波羅蜜は、お釈迦さまが前世で飢えた虎を助けるために自分の体を与えたこと(捨身飼虎)などに基づいており、「私」の実体視に捉われている今の私たちが直ちに実践が困難なものです。

 では、阿含経典でも大乗経典でも主題的に説かれていない、私たち「凡夫」が仏陀の境地を目指すためにはどうしたらよいか、それが説かれているのが、この『入菩薩行論』なのです。

 特にチベットでは、シャーンティデーヴァの生まれ変わりとうたわれたパトゥル・リンポチェ(ウゲン・ジグメ・チューキ・ワンポ。18081887)が現われてたびたび教えを説かれ、現在のダライ・ラマ法王もその法脈に連なっておられます。

 若き日の法王は、空性については学習と修行を続けていれば、いずれ体験できるだろうという感覚を持たれていましたが、菩提心については、理想論であって現実的ではない、とお考えだったそうです。そのお考えが根本から変わったのが、この『入菩薩行論』の教えを故クヌ・ラマ・リンポチェ(18951977)から受けたことによってでした。

インドでの教えでは、この『入菩薩行論』を読み上げて伝授をされながら、その内容に感動して涙を流されるお姿が、目撃されています。

 このような教えが日本で説かれたことは、大変喜ばしいですが、ゴールデンウイーク直後の平日四日間という日程もあって、参加したいけれどできなかったという方、また会場で同時通訳で教えを聞いていても、あまりの速さに理解が追いつかなかった方も、少なくなかったようです。

 以下は、関心のある方のために、当日のメモを簡単にまとめたものです。あくまでも私的な覚書ですので、正確な内容は、日本語訳つきで公開されている映像でご確認ください。

(会場では、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、西村香訳『チベット仏教・菩薩行を生きる 精読シャーンティデーヴァ入菩薩行論』の日本語訳が配布されました。この本はリプリントをチベット仏教普及協会で購入することができます。)

大阪でのダライ・ラマ法王の教えがはじまりました。

今日はシャーンティデーヴァ『入菩薩行論』一章から三章まででした。

一章の「菩提心の利益」は、実際に自分が菩提心をおこすためには、なぜ菩提心をおこす必要があるかを理解する必要があり、動機づけとして、その利益が説かれています。

続く、二章と三章では、実際に菩提心を生起させるために、まず七支分(礼拝・供養・懺悔・随喜・教えを説いてくださいという請願・涅槃に入らないでくださいという祈願・廻向)の祈りを唱え、それから実際に菩提心を生起させる段階にはいります。

菩提心生起の偈を唱えることは、文殊菩薩の許可灌頂とともに、四日目におこなうということでした。

ダライ・ラマ法王はが強調されていたのは、人間としての知性を用いて智慧をはぐくんでいくことの必要性で、苦しみの原因を知り、それを取り除くということをしなければ、苦しみを滅することは困難です。知性を用いて修行をすすめていくのが、インドのナーランダー僧院の伝統であり、また21世紀の仏教徒のあるべき姿でもある、ということでした。

それに関連して、一章から三章を解説されるだけでなく、『入菩薩行論』九章の冒頭を引用され、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』の内容と関連させて説明されていました。

『入菩薩行論』九章1偈に、

「これらすべての支分は、牟尼が、智慧のために説かれた。それゆえにもろもろの苦を滅したいと願うなら、智慧を生ずべきだ。」

とあり、空を理解する智慧が苦しみを滅する直接の手段となります。なぜ空を理解することが苦しみを滅するのかは、

『中論』十八章5偈に、

「業と煩悩とが滅すれば、解脱がある。業と煩悩とは、分別から起こる。それらは、戯論から起こる。しかし、戯論は空性によって(あるいは「空性の中に」)滅せられる。」

とあります。仏教用語の「戯論(けろん)」とは、心が心の作り出した虚構のあり様に捉われていることで、私たちは自分が捉えた対象を実体と考えて、怒りや貪りの心を起こし、悪しきおこないをなして、自・他の苦しみを作りだしてしまいますが、それは正しい物の捉え方ではなく、分析をすると、自分が思っていたような実体をどこにも見出すことができないことがわかります。

続く『入菩薩行論』九章2〜5偈では、『中論』二十四章で説かれている二諦(にたい。世俗諦・勝義諦)が取り上げられ、

「世俗と勝義、これらは二諦として認められる。勝義は意(=認識)の対象ではない。意は世俗であると言われる。

それには二種類の世間が見られる。ヨーガ行者と通常の人である。それに関して、通常の人の世間は、ヨーガ行者の世間によって否定され、

ヨーガ行者〔の中において〕も、優れた者それぞれが優れた意によって〔劣った者の見解を〕否定する。(略)

世間の人は、ものごとを見て「真実である」と分析し、幻のようだとは見なさない。ここに、ヨーガ行者と世間の人との論争がある。」

と説かれていますが、ここでいう「ヨーガ行者」とは、ハタヨーガではなく、対象を分析する仏教修行者のことで、

普通の人(仏教で言う「凡夫」)は、自分が捉えた対象を実体と捉えているのに対し、対象を分析する修行者はそうではない、

ということが述べられています。

苦しみから解脱するのには、対象が空であることを理解して、煩悩を滅するだけでいいですが、煩悩障だけでなく、微細な所知障をも滅しなければ、一切智者(=仏陀)の境地に到達することはできません。

一切衆生を苦しみから解放するためには、自分が一切智者の境地に至る必要があり、そのために菩提心をおこし、空性を理解する必要があるのです。

1日目午前

https://www.youtube.com/watch?v=k5i9l5qyNd0

1日目午後

https://www.youtube.com/watch?v=qf-ZFKQl100


Binder: ナーガールジュナ仏教研究所(日記数:86/全体に公開)
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