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2008年ダラムサラ訪問記(4)

2010/02/09 13:16

2008年10月20日(午前)

早朝、ナムギャル寺院へ。コルラをする。朝早くからおきてしまいまだ朝が暗いうちから、ホテルを出る。コルラの道を歩きながら英語でお祈りをする、というか、日本語ではなくてなくて、なぜか英語で自分の心のうちを祷りの言葉に変えて歩いた。両親の平安を祈ったときには涙がでてきた。

ナムギャル寺院ですこし瞑想して心を落ち着ける。それからホテルへ戻って朝食。今回私は一人部屋なので気楽であった。午前9時30分からナムギャル寺院でチベット仏教のえらいお坊さんからお話を聞く仏教講座が組まれていた。

朝9時30分、ナムギャル寺の2階で仏教大学の最高権威である学位を受けられて、ここダラムサラで先生をされているお話を受ける。

通訳はマリア・リンチェンさん。

正直言って、このツアーで仏教講義を受けることにはさして関心はなかった。このような段取りをしているのはっ主催者の個人的関心によるもので、味方を買えれば、スポンサーをチベット仏教に引き込むようなことである。だから、そういう意味での関心はなかったけれど、何事にも教わることは好きなので、講義を受けてノートを取った。以下そのノートから。


ゲシュ・ダワ先生の仏教講座を聞く。
2002年以降インド・アメリカなどの仏教大学で教えられている。通訳はマリアリンチェンさん。マリアさんの師でもあるようだ。
(厳密に言うと、2007年に2回の講座があって、その続きのようにも思える。この講義はビデオ撮りして、輪t氏のYouTubeのチャンネルGunkan1945に投稿してある。また2007年の講座は、このブログの2007年10月に掲載する。)

<font size="4"><strong>仏教とは</strong></font>
<心・身体・言葉>には三つの汚れがあり、その汚れのために心と体には苦しみが生じる。
身体の苦しみは健康を害するが、薬などで防ぐことができる。しかし、心の苦しみは薬では治せない。精神の苦しみ・心の苦しみを治すのは宗教である。
仏教では三宝と言って、ブッダ・仏法・僧侶に帰依する。
ブッダの教えに帰依することが大事。その教えに従い、解脱の境地に至ることを目指す。そのことにより、輪廻から解放される--涅槃である。
完璧な涅槃の境地に至るのが仏教の教える仏法である。
それらの境地を知ること、それを目指す思いを持つことが、つまり悟を心から求める者を仏教徒と呼ぶ。
求める気持ちを持たない人は仏教徒ではない。両親がキリスト教であっても本人が仏教徒になることはできる。また逆もある。


死と観
観とは、するどい洞察力である。<空>を知ることである。
<strong>修行について</strong>
修行をしても解脱を求めないと、修行をしているとはいえない。

何のための修行であるか。
仏教の教えは、自我に執着しないことである。自我とは常に自分が正しいと思っているので、仏教で言う悟りを得ることがない。
仏教でいう<自我>は他宗教で言う独立した<自我>を言うものではない。そういう<自我>は存在しないのだ。それ自体で独自にこの世で単独で存在する<自我>はないといことを知ることが大事な教えである。またこれらの<自我>が永遠不滅の存在であることも否定されている。

佛教では、永遠不滅な独自性を持つもの存在はないと見ている。なぜならあらゆるの物は他社とのかかわりを持ち、因果関係を必ずもっている。縁起をもって存在するものだと知る。だから自分はそれ自体で存在しているのではなくて、部分部分の構成にすぎず、絶えず変化し続けるものと理解される。
真実を知ることが大事なのです。
たとえば、お化けがいると言われて、お化けへの恐れを取り除くには、お化けはいないんだと言うことを知らないといけない。それと同様に、執着を持つと言うことは独自に存在する<自我>があると思うからです。
輪廻から逃れるためには普遍的な自我ではなしえないことを知る、そのことが大事なのです。

では自我について考察しましょう。
<自我>・・・独立自尊で普遍性をもつ自我はない。
       世俗的な意味での自我はある
<自我>には二つのレベルがある。
1・普遍の自我・・・・を持つ心を<無明>という
2・現存の自我 

(自我について仏教では、永遠普遍の自我はせず、自我は縁起により生じて、また自我を分析すれば、それ自体で成立するものでないことを知り、またいずれかは消滅する肉体をもつものと知ることを根幹においている。しかし自我を独立普遍なるものと思い込むことにより、自我への執着が生じてくる。その執着により、心の平和が乱されてくるのだと説く)


<無明>=無知--->煩悩としてあらわれる=三毒(無明・執着・怒り)
煩悩の土台は、間違えた自我の捉え方にある。無明に影響されて全ての煩悩が生じる。

<font size="4"><strong>解脱への道</strong></font>
仏法に帰依することから、解脱への道がはじまる。
それぞれの煩悩への対応を学ぶことができる。


三毒のひとつである<怒り>の心を鎮めることの大事さ
自我に対する誤った考え方を正さないといけない。その間違えた考えをただすためのっ手法が仏法である。仏法に帰依しなければ、一時的な怒りを滅することができても、根本の解脱に至ることがない。
全ての煩悩を滅して、解脱の境地に至るには間違えた自我を捨てることにある。

心の苦しみを除く
三毒とは無知であり、執着の気持ちをもち、怒りの心をもつことである。
身体の苦しみは<心>のくるしみである。
大鐘持ちは<心>の苦しみ=執着をもち、貧乏人は、肉体の苦しみをもつ。

仏教は精神的な苦しみを滅する努力である。
三毒の及ぼす煩悩、その煩悩の因を知ることが大事。

<執着>の気持ち
対象物が好きだと言うだけでは執着とはいわない。正しいこころではなく、間違えた心で対象物を見ることを執着と言う。
たとえば10%しか魅力のないものを、50%もあるかのように誇張してとらえる心を言う。
ブッダは全ての生物にたいして、執着がないから、あるがままの形で生あるものをごらんになられた。

怒りの心と言うのは、執着とは間逆の心の動きで、いやなもの、魅力のない部分が10%なのに、100%であるかのように捕らえる心の動きである。

三毒の煩悩をなくすための手段を仏教では教えている。
仏教には小乗仏教、大乗仏教、密教がある。乗は修行の道を表す。 (以上)


この午前中は体調もまあまあであったので、ノートをとっることができた。でもマリアさんが訳してくれる仏教用語が、なじみのない専門擁護であるので、自分の不勉強を知らされる。日本人とはいえ、仏教について日常から学ぶ機会などほとんどない国だから、あらためて聞かされるとむずかしいものだ。

日本は中国から仏教が輸入されたので漢字概念にならざるをえないわけで、あまり適切な日本語ではなく、輸入言語のままなんですよね。

まあ、やむを得ないか。江戸時代までは通用していたわけだが、近代になって、特に現代生活では意味不明語になっているのだ。

あらためて勉強しないといけないと反省。チベット支援のためにはその根本の思想を理解して、チベットの人たちに接しないといけないと思う。


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