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ケイティ語録−3♪

2009/10/17 08:32


 人に愛されることが必要だと考えると、私たちはどうなるだろうか? 人に認めてもらうために奴隷になるだろうか。 認められなかったらどうしようという考えに耐えられないため、正直でない人生を送るだろうか? 人があなたにどういう人になってほしいと思っているのかを探り当てようとするだろうか? そして、そうなろうとするだろうか? 

 実は、このようなやり方では、決して人に本当に愛されることはない。 あなたは自分とは違う人間になろうとし、そして人が「愛している」と言うと、それを信じることができない。 なぜなら、相手は見せかけの人を愛しているから。 存在すらしていない人を愛しているのだ。 あなたが「ふり」をしている人を。 他人の愛を求めるのは難しい。 命取りになる。 愛を求めるなかで、あなたは何が本物かを見失ってしまう。 これは私たちが、すでにもっている愛を得ようとして、自分のために作り出した牢獄なのだ。

「探すのをやめたとき愛は見つかる*創元社*バイロン・ケイティ著」

第3章−P64

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 今日の文章を読んでいて、ふと思い出したことがあります。

 それは、私がスリーインワン・キネシオロジーを学びはじめたとき、レベル1のテキストで「完璧さと演技」というテーマについて書かれていたことです。これは今日のテーマとほとんど同じようなことだと記憶していたので、久しぶりにレベル1のテキストでも読み返してみようかなぁ〜と思ったのですが、なかったので自分の記憶を辿って簡単に書きたいと思います。
 
 たしかテキストで書かれていた「完璧さ」というのは、幼い頃だれもが両親から愛されるためには、両親の期待に答えられる自分を「完璧に演じる」必要があると思うようになり、そのような考えがいつしか自分の本当の気持ちから離れ、人の「期待」を生きる人生にすりかわってしまう、というようなことだったと思います。

 また、人の「期待」というのは、両親ですら一貫性がなく、一般的に常識だとされている考えも、ほとんどの場合、人がお互いに生きていくうえでの規範はあったとしても、それについてすべての人が同意するとは限らないという葛藤がつきまといます。なぜなら、みんなバラバラの考えを信じて生きているからです。

 それでも、その人なりに“完璧”に愛されるために、本当の自分が感じていることではなく、人が考え信じていることの期待に精一杯応えることで承認や賞賛を得ようとします。

 「なぜそのような完璧さを演じるようになるか?」というと、両親が信じる考えに一時的に同意することで、両親が自分を認めてくれたことがあるからです。

 そのため、いつしか自分の本当に感じている気持ちではなく、両親の期待に応える考えや役割を演じ続けることが、自分が愛され、きっと幸せになれると考えるようになり、その考えと自分を同一化するようになりがちだという内容だったと思います。

 でも、たとえ両親(両親ですら統一性などないのに・・・)の期待を完璧に演じたとしても、小さい頃の友人、先生、大人、新聞、テレビなどで知らされることは、みんな別々の考えをもっていて、いったい自分はどのような考えに合わせて人生を生きて良いのかすらわからない状態になります。

 またその時々で、優秀で完璧で非の打ち所のない人を演じることができたとしても、完璧のように見える人は、ほかの人が助けてあげるような余地がないため、どんどん孤立し、逆に自分が愛されているという感覚が得られにくくなります。

 また「完璧さと演技」は、その人の小さい頃に求めていた「そのままの自分を愛して欲しい」という欲求と正反対であるため、完璧さを演じようとすればするほど、決して満たされることのないジレンマを生みだし続けるというおまけまでついてきます。

 スリーインワン・キネシオロジーでは、上記のように人が人生のなかでぶつかる困難について、幼少期から思春期そして大人になっても抱え続けがちなことをテーマにして、まず徹底的に自分自身についてもセッションを通して見つめていきます。そのようなプロセスを経ていないと、ほかの人をセッションするとき、その人の感情的なドラマにはまり込み、そこから抜け出せなくなりがちだからです。

 私がスリーインワン・キネシオロジーという技術に出会ってよかったと思うことは、身体のストレス反応を見つめることで、その人が無意識に反応しているリアクションやボディ・ランゲージを読み取ることができるようになったことです。

 そして、それらのボディ・ランゲージから得られた情報を元に、再度、身体が求める東洋・西欧のなかで生みだされてきたストレス解放技術を駆使し、身体のなかでイメージとして残っているショート(短絡)した回路をエネルギーレベルで中和し、「過去の苦痛に満ち信念体系」を楽に見つめ直すことができ、意識と無意識をつなげる架け橋をある程度つくりだせるようにもなりました。

 しかしながら、人生という変化し続ける相対性のプロセスのなかでは、何が真実であるかは、まったくもって人が今までに教えられてきたことや各人が“信じたいこと”しか、目に見える世界のなかでは存在することができません。

 また、その五感を通じて証明されることは、いつも部分をとらえて分析をしようという方法論であるため、とくに視覚を超えた領域に入ったとたん、仮説の範囲でしか証明することができなくなるのが常だと言えます。

 つまり、ここでの相対的な目に見える現実は、真実あるいは真理と呼ばれるような一貫性を見いだすことができない世界のなかで、それを見いだそうしても堂々巡りにしかならないということです。身体と自分のまわりの世界という物質的な存在の状態を基準にしてみる限り、二元論の信念体系から一歩もでることはできないので、そこで絶対(ほかに対立するモノがないこと)的な状態を知ることはできないわけです。

 このため私の場合、スリーインワン・キネシオロジーという技術で、過去の苦痛にともなう信念体系を見直し、それらの書き換えを行うことで、その信念からは解放を行ってきたのですが、また次の人生の次の問題というように、対象が変化しただけで、決して終わることのない、変化の中で変化することを目的とする解放を行っている状態になってしまいました。

 ここで今日のケイティの言葉に戻ると、彼女は「人に愛を求める必要はないこと」、また「人がどのように自分を評価したとしても、すでにここで今という現実のなかで存在しているので、そのことについて何の理由も、そして誰の承認も同意もまったくもって必要がないこと」を教えてくれています。

 つまり、ケイティの結論は「愛だけが存在する、それ以外は存在しない」。たとえそれがどんな形や考え−信念を信じていたとしても・・・ということだと思います。

 ケイティの洞察は、ここでの現実を通して問い直しを行うことで、相対的な信念の見直しを行い、すべての考え方や信念から自由になり、「存在」への気づきを促してくれるようです。

 「ケイティのワーク」や「奇跡のコース」、インドの聖者たちの教えにふれ、私たちが信じている世界の枠組みや視点から離れて見ることが可能であることに気づくと、私たちという存在に対する認識は拡大し続け、人生の枠組みを超えた生き方が存在することがわかるようになると思います♪


Binder: あきやんgtのバインダー(日記数:659/全体に公開)
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