純文学と大衆文学
今日は、と言っても昨日になってしまったが、10時30分に起きた。朝飯と昼飯を兼ねてアヒルメシにしようかな、などとも思ったが、ここはやっぱりいつもの通りトーストとコーヒーにした。たまに牛乳、豆乳、果物、サラダ、ボイルドエッグをつけることがある。僕は学生時代からの毎朝の習慣であり、これを変えるとお腹の調子が悪くなってしまう。
TVのサンデープロジェクトを点けて、本を読んで過ごした。TVは大して面白くも無かった。神戸の震災に遭ったおばあさんのインタヴューで、震災よりも戦争中がはるかに辛かった、と言っていた。戦争中は食糧難で食い物がなかったが、それに比べれば、震災では食べるものに困ることは無かった。決して、震災を軽んじる訳ではないが、.兵隊さんも国民も食糧難、これも先の大戦の敗戦の理由の一つであったろう。
遅い昼飯を食べて、いつもなら「新婚さんいらっしゃい」や「たかじんさん」でも観るのだけれども、お客さんと会わねばならず、外出した。勿論、読書しながらであるが。三つ子がコマーシャルになった途端にTVを観るように、僕もなんか面白そうだなあ、という場面でTVを観るのである。ちなみに、昼は自宅で親子丼に自家製ナスのぬか漬けであった。
外はなぜか自動車が混んでいた。なんでだろ、なんでだろう♪、と考えれば、県外ナンバーが非常に多かった。高速料金1000円の効果なのかもしれない。
今時期、夜は当然のように鍋ですね。鶏肉、豆腐、白菜等、定番野菜のほか、今日はトッピングとして里芋、お餅といったところ。それに、昨日の静岡名産わさび漬けに沢庵だっせ。
さて、純文学それに対して大衆文学というものがわが国には存在する。この区分は、あたかも詩や小説等の文学のジャンルであるかのように、厳然と区別されている。戦前はもっと酷くて、文壇や出版界でもいがみ合っていたらしいと言うのだな。芥川賞(純文学)、直木賞(大衆文学)という二つの賞も人々を惑わせている元凶の一つかもしれない。
僕らの若い頃は、純文学の作家といえば、仏文学、独文学、露文学、英米文学等の研究者が小説や評論や詩を書いていたように思う。また、外国の文学思潮なんてものに影響も受けた。月刊誌なんかも、店頭で「オール読物」「小説新潮」「歴史読本」なんてのを表紙を見たことはあるが、「文学界」「群像」それに書店には販売されていない同人雑誌の類を読んでいた。大衆文学といわれる物はほとんど読んではいない。時代小説なんてのは、つい10年前くらいから読むようになった。これがまた面白い。特に戦前に書かれたものは、全国平均0.5パーセントに過ぎない武家社会を描き、武士の忠や義のみならず、当時の町人や農民も元気で逞しいのであって、実に読んでいて楽しい。おまけに庶民は粋でいなせだ。まさに日本人の原点を見るようである。もう、純文学、大衆文学の垣根を取り払ったほうがいい。情報化社会と言われて久しいのであるが、誰もが知り得るのであるので、作家は読者により評価されるべきではないか。
かといって、僕は新刊書はあまり買うことはない。書店で立ち読み程度で、買ってまで読もうとは思わない。こんな俺でも書ける屁のような小説なんぞ、誰が買うものか。
賞といえば、10年ほど前であろうか、僕の愚息の親友は学生時代に、僕には賞の値打ちはよくわからないのだが、角川青春文学賞だか、新人賞だったか受賞した。受賞作は角川書店から出版され、僕も読んでみた。内容は宇宙戦艦ヤマトのようであった。僕はヤマトは読んだことも無く、歌とパチンコでしか知らないが、とにかくヤマトのようであった。やたらと僕の名前が出てきた。それは愚息と僕は同じ姓を名乗っているので、当たり前なのには違いない。僕は既に勘当した息子であるので、親でなければ、息子でもなく、従って会話も長いこと交わしていない。だから、作家がその後どうなったか知らない。
最近、子供向けのライトノベルなんてのが流行しているので、もしかしたらご活躍中なのかもしれない。名前はド忘れしたけど、女優の稲盛いづみのかなり近い親戚だ、というのは息子が僕の息子であった頃に聞いた。
愚息などどうでもいいが、この若き作家の活躍を祈りたい。



