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「自己責任」の歴史的背景についてのメモ──平成4(1992)年通商白書

差出人: Sou Oguraさん
送信日時 2004/05/10 05:33
ML.NO [chance-forum:18706]
本文:

「自己責任」の歴史的背景についてのメモ──平成4(1992)年通商白書

2004年4月のイラク日本人人質事件において、なぜ「自己責任」という言説が
あれほどの説得力を持ったのだろうか。日本で「自己責任」という言葉は、い
つから、どんな意味で使われたのか?

もともと「自己の責任において」という言い方は、他者の干渉を排除して行動
する自由を指していたように思われる。しかしバブル崩壊の90年代以降、何
らかのかたちで「自己責任」の意義が変化したというのがここでの仮説である。
その過程の中で「自己責任」は、すでに累積した負債の支払いを示す言葉とな
り、ひいては自由な行動を縛る枷(かせ)を意味するようになったのではない
か。

インターネット上の情報を眺める中で私の目に付いたのは、通産省(現:経済
産業省)の平成4(1992)年通商白書である。その結語には次のように書かれて
いる。
http://www.meti.go.jp/hakusho/tsusyo/soron/H04/00-01-01.html

「今後の我が国の社会や経済のフレームワークを考えるにあたっては,・・・
個人の選択の自由の拡大と自己責任の原則の確立がその方向性を評価するうえ
での重要な指針となってきている」。

「自己責任の確立」が「重要の指針」となった1992年の経済は、この白書の冒
頭によれば次のような状況にあった。

「世界経済は、83年以来長期にわたる好景気を享受してきたが,91年には主要
国における景気の鈍化・停滞,旧共産圏地域の経済的混乱,湾岸危機の後遺症
による中東地域経済の落ち込みなどを反映して,82年の世界的景気後退以来の
低成長となった」。

バブル崩壊。80年代の好景気の終わりと、90年代の世界的不景気の始まりであ
る。「自己責任」という言葉は、おそらくこの時期に「原則」として採用され、
時代を代表するスローガンになった。白書は物語る:

「個人や企業の自己決定とその裏腹となる自己責任といった基本的な価値は明
示的に認識自覚されるべき社会の理念であり,その社会のシステムへの投影は,
結果としての経済的パフォーマンスを超えた次元で明示的になされていく必要
がある」。第一章第三節の4

このように「自己責任」は「自己決定の裏面」として、「基本的な価値」とみ
なされた。この「理念」は、いっぽうで、それ以降も続く金融機関の破綻を公
的資金で補填する場合などに企業の責任を問う規範として用いられ、他方で、
投資や保険に関する個人の自己責任を強調する意味で多く用いられた。その意
味では、「投資家教育」とも言われるように、人々は「自己責任」にむけて教
育される必要があるとされた。この白書で通産省が予言したように、「明示的
に認識自覚されるべき社会の理念」へと仕立て上げられるに至った。

この意味での「自己責任」とは、具体的には、企業ないし個人が借りた金を返
すことであるとか、投資においてリスクを負うべきことすぎないであろう。し
かしこの白書は、「自己決定」および「自己責任」が、より基本的な現代的価
値を背景としていることを次のように主張している。

「我が国における価値観の多様化は,企業を中心とした利益共同体,運命共同
体としての求心力を弱める方向に作用していると考えられ,将来の利益や生活
に対して現在の利益や生活を犠牲にする傾向が弱まり,現時点における趣味や
生活の充実に対する選好を強めている。こうした社会意識の変化は,我が国の
所得水準の上昇に伴う精神的欲求の拡大と国際的な交流の増大に伴う文化的刺
激によってもたらされた面もあり,今後一層進展する可能性がある。・・・労
働時間を短縮し,趣味や生活の充実のために充てる時間を増大させていく傾向
を強めるとともに、従業員が企業活動に対して行った貢献に対する対価を年功
処遇による傾斜や企業の福利厚生システム等を通じて支払われるのではなく,
現時点において受取り,自己処分,自己決定することを要求する傾向が強まる
ことが予想される。最近しばしば指摘される「企業は豊かになったが,個人は
豊かではなく,ゆとりに欠けている。」といった不満は,現存の分配構造に対
するあからさまな不満を意味するものであることに注意する必要がある」。第
一章第三節の3

このときの人々の関心は、日常生活や精神的生活の「ゆとり」を求めることに
向けられていたという。「価値観の多様化」も、時代を代表するスローガンで
あろう。それに伴って雇用形態も多様化し、たとえば転職や派遣労働が一般的
になってきた。しかし、それによって「労働時間の短縮」や会社への従属から
解放されたと思う人はいないだろう。

人々は、「多様な価値観」に基づく「自己決定」と、「ゆとり」をともなう生
活を求めた。しかしその後の「自己決定」は、転職がいくぶん自由となったり、
投資商品の幅が広がったりしたことに過ぎないように見える。むしろその「裏
面」としての「自己責任」が強調され、自由に決定したツケを支払う責任が追
及される。

この1992年の『通商白書』に見られるのは、ライフスタイルの選択といった人
格的意味での「自己決定」が、投資商品の選択といった経済的意味での「自己
決定」をつうじて、債務返済という意味での「自己責任」へとすりかえられた
ということであろう。逆に、そうした経済的意味での「自己責任」が「社会の
理念」にまで祭り上げられ、およそ「自己責任」と言えば何に対しても説得力
を持つという事態に至ったのではないだろうか。

健康保険もいまや「自己責任の時代」だとされる(1)。年金改革の原理も「自
己責任原則」(2)。はては「司法制度改革」も「自己責任原則に貫かれた」社
会を目指すとされる(3)。「自己責任」を原理とすることの妥当性は個別の場
合ではかられるべきであろうが、およそ「自己責任」を持ち出せば内容にかか
わらず通用する風潮があるとすれば、無反省も甚だしいと言わざるを得ない。

(1) ニッセイ基礎研究所 http://www.nli-research.co.jp/stp/nnet/nn020719.html
(2) 日本銀行 http://www.boj.or.jp/service/out006.htm
(3) 首相官邸、司法制度改革推進本部http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sihou/

小椋宗一郎

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