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「自己責任論」に関する倫理学的考察──I.カントにおける法的責任と道徳的責任

差出人: Sou Oguraさん
送信日時 2004/05/10 05:33
ML.NO [chance-forum:18707]
本文:

ごめんなさい。場違いは承知しています。ただ、これ(倫理学的考察)を書か
ないわけにはいかなかったのです。(しかももう一個ある:社会学)。もし物
好きで読んでくださる方がいれば、コメントは大歓迎です。



「自己責任論」に関する倫理学的考察
  ──I.カントにおける法的責任と道徳的責任

一般的に言われる「自己責任」という言葉は、次の二つの意味で用いられ、た
いていの場合、それらが混同されているように思われる。

1)法的責任(拘束性)
2)道徳的責任(責務)

この区別は、I.カントが『人倫の形而上学』において人倫(Sitte)を法論と
徳論をわけて論じたことを基礎としている。翻訳*では、法論では「拘束性」
と訳される言葉(Verbindlichkeit)が、徳論では「責務」と訳し分けられてい
る。この概念は、ある行為が義務として強制されていることを意味するが、法
論と徳論では、その強制のされ方が違うからである。
*中央公論社、世界の名著版──以下数字はこのページ数を示す

カントによると、一方で「合法性」は「単なる外的行為とその合法則性」だけ
に関わるものであり、他方で「道徳性」は「行為の規定根拠」にまで関わるも
のである(337)。つまり、ある行為の合法性を問うときには、具体的にどんな
行為をしたという外面的な結果だけが問題となるのに対し、行為の道徳性は、
その行為を行うことが内心でどのように決定されたかということに関係してい
る。合法性は、行為を外から強制し拘束するものであり、違法な行為が処罰さ
れるのもこのためである。殺人を犯せば警察によって「拘束」されるし、借金
を返済しなければ財産が強制的に差し押さえられる。

他方、「道徳性」は、どのような理由から、どんな目的で行為するかという内
面的動機に関わるものである。たとえば、どんな卑劣な動機から行為しても、
その行為が法律に反しなければ拘束されたりすることはない。むしろ、こうし
た内面的意味で自分を強制できるのは自分自身だけである。こうした道徳的意
味での内面的強制を、法的意味での外面的強制と区別するために、翻訳では
「拘束性」ではなく「責務」と訳される。

今回のイラク人質事件では、外務省勧告を無視してイラクに入国したというこ
との「自己責任」が問われた。これをどう考えるべきであろうか。その「法的
責任」を問うことはできない。なぜなら外務省勧告は、その勧告に反した者に
処罰や不利益を課す規定を持たなかったからである。(あとから処罰の規定を
加えることはできない:罪刑法定主義)

また、帰りの航空運賃等を請求されたことに関しては、もし政府のチャーター
機での帰国が本人たちの依頼に基づくものであったなら、単なるサーヴィスの
提供行為として、それに対する支払いの法的義務が発生する。これは、外務省
勧告を無視してイラクに入国したこととは、論理の上で何のかかわりももたな
い。しかも、もし本人たちの依頼に基づかないで日本への移送を行ったとすれ
ば、それは単なる航空券の押し売りである。

かれらは「道徳的責任」を問われたのだとしよう。もし「道徳性」をカントの
意味で捉えるとすれば、そもそも他人がそれを問うということが成り立たない。
それを問うことが出来るのは自分自身だけだからである(cf. 534)。これは、
いわゆる「世論」がかれらの責任を問うている現実とは全く相容れない(cf.
351)。世論は、法廷における裁判官のようにかれらを裁いている。この事につ
いては、あとで考察しよう。

カントの「道徳性」概念からこの事件を考える意義は、人間の「自由」と「自
律」の根本的可能性に関わるものである。

人間がもし自由でありうるとすれば、義務に合致した目的を立て、その目的に
むけて行為することを自らに強制することができる。その強制が、カントの言
う意味での「責務」である。その目的が義務(なされるべきこと)と一致して
いるかどうかを自ら判断して目的を定めることができる、このことが人間性の
根拠である (cf. 546)。

カントの言う「自由」は徹底的である。自らの意志を決定する根拠が、なんら
かの感情であったり、他の目的のための手段であったりする場合には、その意
志はそれらのものに依存しており自由であると言うことはできない。ましてや
外的な状況に依存していたり、他人に指図されたりする場合には、それらに従
属していることになろう。あくまで自分がすべきと思うことをする場合にだけ、
自由であると言うことができる。

今回イラクへ赴いた人たちは、他人の意見によってではなく、自分がイラクへ
行くべきと考えたことを実行したという点で、自らを自由だとみなすことが可
能である。それに対して、それを義務と考えるのにもかかわらず状況や他人の
意見によって思いとどまっていたとしたら、自分を自由だとみなすことは不可
能である。また、もし彼らが自分の義務とその行いが一致していたかどうかと
考えるとすれば、少なくともそれはカントが言う意味での道徳的な反省である
と言えよう。

かれらは行くべきではなかったと「世論」は言う。危険であり、政府が退避勧
告を出しており、家族も引きとめたのだから。むしろそれは義務に反すること
であると。しかしこの判断は一面的である。なぜなら、窮状に陥ったイラクの
人々を援助し、または少なくとも状況を世界に伝えることが人間的義務だとも
言えるからである。こうした義務の衝突の中で、なにが義務であるかを定める
ことはきわめて困難である。この困難さを無視して軽はずみな判断を下した人
々は、これら両方の義務を視野に入れて、十分な根拠をもって判断したのかを
反省すべきである。

この判断は、それぞれの個人が、自らの行為に対してだけ下すべきだと私は考
える。その判断を他人に押し付けることは、他者の自律への侵犯である。

小椋宗一郎

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