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鳥取市の株本です。
犬山市教育委員会(以下、犬山市)は、日本の絶望的な教育界にアドバルーンのように、ひとつのビジョンをぶち上げたと感じました。
『全国学力テスト、参加しません。』(明石書店)では、「学力」とは、単なるペーパーテストの得点力(今までの学力)でなく、「自ら学ぶ力」であり、「基礎的な学力を身につけ、家族や友だちを大事にし、地域を支え、自分の人生をたいせつにするとともに、生涯にわたって自ら学び続けようとする資質や能力」としています。
よって、人格形成の重要な要素であって、(犬山市の言う)学力と規範意識は切っても切れないものであるといいいます。
梅原猛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%8E%9F%E7%8C%9B は「日本は神を2度殺した。」という。それは廃仏毀釈と現人神の人間宣言(同時に教育勅語の廃止)のことで、これらにより日本人は無宗教になり、道徳を失ったとしている。よって、新しく道徳を創造しなければならないのだそうです。
「聖徳太子は仏教を国教としたが、縄文時代以来の日本の宗教である神道(古代神道⇔国家神道)と習合した。神仏習合は、空海が真言密教により完成させ、修験道が外来の仏と土着の神を幕末まで共存させた。」としています。なお、教育勅語は尊皇攘夷の水戸学の影響を強く受けているとしています。
新しい道徳を創造できればいいのですが、それはおそらく多難な道を辿るでしょう。一体それを誰がどうやって決めて、国民へどのように教えるのでしょう。そんなことができるのか、大変疑問です。
しかし、公共性などを含む道徳は、私たちを含め梅原氏のいうように必要なのだと思います。私は、子どもたちには「道徳」という科目より、総合(プロジェクト)学習を通して学ぶことが適切と思っていました。
犬山市の言うように、「学び合い」 http://search.goo.ne.jp/web.jsp?from=query&MT=%B3%D8%A4%D3%B9%E7%A4%A4&web.x=0&web.y=0&DC=10 (を中心とする学力)でそれが可能といわれると、その「学び合い」は総合(的)学習にも適用されるにしろ、実(地域)社会から切断された学校という限られた社会で、十分にそれらを身に付けられるものかと戸惑ってしまうのですが、学校は実(地域)社会と切断されていても、子どもたちは実(地域)社会から切断されているわけでなく、「自ら学ぶ力」は将来においてのみでなく、現時点においても活用され、子どもたちの思い込みが検証され、実(地域)社会からフィードバックも受けられるものだということなのでしょうか。
渡部昇一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%83%A8%E6%98%87%E4%B8%80 や小室直樹 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AE%A4%E7%9B%B4%E6%A8%B9 は、「規範意識」とは内容はすでに決まっていて、メニューもちゃんとできているかのような言い方をするが、現代のように文化や価値観の入り乱れた時代では、その内容は定かでなくなっています。かつての「しつけ」が虐待と認識されつつある時代です。
それから見れば、かつての『父性の復権』とか、この頃の藤原何とかさんの『国家の何とか』は以ての外でしょう。その点、秋山ジョージ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E7%A7%8B%E5%B1%B1 の『浮浪雲(はぐれぐも)』の父親像は行けてたと思いますが。
上記のことは、「学び合い」が、いわゆるレクレーション授業 http://search.goo.ne.jp/web.jsp?MT=%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%8E%88%E6%A5%AD&x=0&y=0&=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&STYPE=web&IE=UTF-8&from=gootop のようなレベルのものでなく、それ以上に格段に充実した成果をもたらすことを理解した上で言っています。
渡部昇一などは、よくダーウィン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3 の進化論を引き合いに出して、「競争の原理」を教育その他へ導入することを奨励していましたが、ダーウィンの進化論について、『相互扶助論』のクロポトキン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3 や今西錦司 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8 は、大方において机上論であり実際に検証されたものではないとしています。
犬山市はこの辺りを、アルフィー・コーンの『競争社会をこえて』(法政大学出版局)http://www.amazon.co.jp/%E7%AB%B6%E4%BA%89%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%92%E3%81%93%E3%81%88%E3%81%A6%E2%80%95%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A3-%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/4588004360/ref=sr_1_1/249-4043943-0046740?ie=UTF8&s=books&qid=1177998730&sr=1-1 で説明していますが、この本も大変興味深かったです。
私たち人類文明が、日本で言えば縄文時代の頃から、競争ではなく「相互扶助」によって発展してきたことは、家庭や現代における会社や近隣社会の自治会など、あらゆる社会が人々の助け合いで成り立っていることを見ても、誰の目にも明らかでしょう。
弥生時代の頃からは、通貨も発達し年貢などを納めるなどもあり、仕事量が数字に換算され、人類文明はあたかも競争が奨励されているかのような道を辿ってきた。ダーウィンの進化論は、その頃の時代性もあって、時の人たちによって都合よく大いに利用されたわけです。
「学び合い」は、縄文文化における自給自足です。人類文明はいま時代の頂点に立ち、もう一度やり直そうと歩き始めようとしているようです。日本もやっとそのスタートラインについたのでしょう。
読み込み中...-
MLNo.4796
かぶもとさん
(3) 2007/09/03 09:14 [メール表示する]

鳥取市の株本です。
雨の降る音が聞こえます。
<地域で、「生きる力」が育つか?>
>ビジョンは、その実現に必要なすべての行動を誘導します。この真反対に位置するものが「絶望」です。それはときに自殺や犯罪をもたらします。
ビジョンが積極的に人間関係を構築してゆく方向の延長線上で実現されるのに反し、絶望は積極的に人間関係を絶ってゆく方向の延長線上で実現されます。
絶望は、望みが絶たれるのでも、望みがなくなるのでもなく、望みを自ら絶ってしまう結果です。よって、当然自殺へ追い込まれます。追い込んでいるのは本人自身なのですが・・・(ここでは、犯罪などの反社会的行動は除外します。それも結局は社会から制裁を加えられることになりますが。)。
皆さんは、「なぜ、自ら望みを絶って、自分自身を自殺へ追い込むのか?」と思われることでしょう。それは望みを活かす方法を知らないからです。そのため必然的に人間関係が狭められ、選択肢が制限されてくるのです。
これは簡単に言えば、積極性が向けられる方向が逆方向であるに過ぎません。ただし、そこにはその望みを活かすビジョンがあるかどうかと、そのビジョンが誘導する行動を選択できるかどうかによって段違いの結果をもらすのです。

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MLNo.4797
"今井啓子"さん
(0) 2007/09/03 10:20 [メール表示する]

Citizens_for_Diversity_in_Educationのみなさま
MLを大変興味深く読んでいる一人です。
いつもさまざまな方々の発言に励まされております。
ありがとうございます。
鳥取市の株本さま
はじめまして、こんにちは。
ちょっと見当違いの内容だったらごめんなさい。
私は凡人主婦ですが、私も
<地域で 「生きる力」を育て合いたいなあ>
と、思っている一人です。
街じゅうを、花と緑と笑顔いっぱいにして、
人と人が助け合う町にしたいと願っています。
その一つの方法として、駅周辺を 花壇で埋めたいと
商店会さんなどへ微力ながらお願いしています。
今は、セイフテイボックスやまちの泉の周り花壇手入れを
4人で始めて4年になります。
手入れをしていると、いろんな方々が声を掛けて下さいます。
ちょっとした会話、何気ない会話の中に、
「生きる力」がこめられているのではないかと思うことがあります。
こちらからも道行く人に、話しかける事があります。
☆ちょっと落し物をした方へ、「今、手帳を落としましたよ」
「ありがとう、教えてくださって、」「気をつけて出かけて下さいね」
☆ベビーカーを押している方へ、「お子さんに掛けているタオルを
引きずっていますよ」「あら ほんと ありがとう」
☆ビラ配りをしているお兄さんへ、「今日もアルバイトご苦労さん」
「はい、どうも」「いつもみかけるけど元気でいいね」
「ああ、花を植えているんですか」「そうよ、今度どんな花がいいと
思いますか」「僕はパンジーが好きだけど、町田はサルビアが市の花
なんだってね」「そうそうよく知っているわね」
話をした後は、どの方も笑顔で歩いていきます。
有難いですね。
このまちが助け合いの街になって欲しいという想いが
ささやかすぎるけど、「生きる力」の一つとなることを祈って
花を植えています。
<地域で 「生きる力」を育てること>
こんな事はいかがでしょうか? 凡人主婦今井啓子
----- Original Message -----
From: "株本 正貴"
To:
Sent: Monday, September 03, 2007 9:14 AM
Subject: [diversity:4796](9)実物の教育
> _Mailing___________________________Citizens_for_Diversity_in_Education__
>
> 鳥取市の株本です。
>
> 雨の降る音が聞こえます。
>
> <地域で、「生きる力」が育つか?>
>
> >ビジョンは、その実現に必要なすべての行動を誘導します。この真反対に位置するものが「絶望」です。それはときに自殺や犯罪をもたらします。
>
> ビジョンが積極的に人間関係を構築してゆく方向の延長線上で実現されるのに反し、絶望は積極的に人間関係を絶ってゆく方向の延長線上で実現されます。
>
> 絶望は、望みが絶たれるのでも、望みがなくなるのでもなく、望みを自ら絶ってしまう結果です。よって、当然自殺へ追い込まれます。追い込んでいるのは本人自身なのですが・・・(ここでは、犯罪などの反社会的行動は除外します。それも結局は社会から制裁を加えられることになりますが。)。
>
> 皆さんは、「なぜ、自ら望みを絶って、自分自身を自殺へ追い込むのか?」と思われることでしょう。それは望みを活かす方法を知らないからです。そのため必然的に人間関係が狭められ、選択肢が制限されてくるのです。
>
> これは簡単に言えば、積極性が向けられる方向が逆方向であるに過ぎません。ただし、そこにはその望みを活かすビジョンがあるかどうかと、そのビジョンが誘導する行動を選択できるかどうかによって段違いの結果をもらすのです。

- MLNo.4798 かぶもとさん (3) 2007/09/03 10:48 [メール表示する]
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MLNo.4799
かぶもとさん
(3) 2007/09/04 08:55 [メール表示する]

鳥取市の株本です。
今日は少し長いですが最終回です。
<地域で、「生きる力」が育つか?>
>皆さんは、「なぜ、自ら望みを絶って、自分自身を自殺へ追い込むのか?」と思われることでしょう。それは望みを活かす方法を知らないからです。
>
>
望みを活かす方法を知らねば、その方法による行動を選択することができません。よって、その方法によらない選択をしたとします。ところが、その方法によらない選択をしないで、その(望みを活かす何らかの)方法として、「何とかする。」という選択肢もあるわけです。このように、敢えてその方法によらない選択をすることは、すなわち、自らその望みを絶つことです。
「わからないから何とかする。」、これはトライアル・アンド・エラーでしょう。これをわかるまで、何とかなるまで続ける。それをできるだけどこまでも継続・維持できるためにこそビジョンが重要なわけです。
> これは簡単に言えば、積極性が向けられる方向の違いに過ぎません。ただし、そこにはビジョンがあるのかどうかと、そのビジョンが誘導する行動を選択できるかどうかによって段違いの結果をもらすのです。
その行動を選択できないことにはセルフイメージが関わっています。人は成長するものでありながら、現在の自分のイメージが先入観となって、ビジョンの理想的な有り様の前に気後れしてしまうことによります。
これを克服するメソッドについては、図なども活用した丁寧な説明が必要となります。
さて、ここまで読み進んでいただき、皆さんは、「ビジョンを活用することが人間の特権でありながら、ほとんど活用されていない。」ことについて、どのようにお考えでしょう?
私は、現代人が、想像力を使って創造することのできない動物に近い、目先の享楽や困苦に振り回される動物的な生き方をしているのだと思います(動物たちに失礼かも知れませんが・・・)。とくに先進国の人たち程そうなのではないでしょうか?むしろ、現代文明に染まっていない人たちこそ想像力を活用しているように思います。たとえば、古代人や伝統的なネイティブ・アメリカンらは、そのような文化を民族における教育を通して伝達してきたのではないでしょうか。
なぜ、私たちはそのようなことになってしまったのでしょうか?
瞑想を生活に取り入れる習慣は、日本では仏教における「 禅 」という文化によって存在していました。ただ、近代においては数や物質が強調されるあまり、それら瞑想に類するものの想念(イメージ)の目に見えないという非物質的であることが、一般社会から科学的でないとされて、ある種の軽蔑を受けて来たのではないでしょうか。
私たち文明人といわれる現代人は、このようにして長期的な未来を予期して努力することのない無気力人間になってしまったのだと思います。
私は、以上のようなビジョンの活用法を鬱や神経症の方々へ指導していますが、とりあえず、今回はこれで筆を置くことにします。

-
MLNo.4800
"今井啓子"さん
(0) 2007/09/04 10:17 [メール表示する]

鳥取市の株本さま。みなさま。
こんにちは。
<地域で「生きる力」が育つか?>
大変興味深く拝読させていただきました。
ありがとうございます。
ところで、またまたちょと別の話になって
しまうかもしれないので、申し訳ありませんが、
今の世の中で、「生きる力」を育てあう事は、
とっても大事なことだと思っている一人なので、
この場でちょっと話をさせて下さいませ。
ずいぶん前のことになりますが、
心理学者の河合隼雄氏がある講演会で、
このような事をおっしゃっていました。
(残念ながら、河合氏の言葉をそのまま正確には
お伝えできません。私の記憶の言葉であるということを
ご理解いただき、ご了承下さいますようお願い申し上げます。)
河合隼雄氏がこうおっしゃったように記憶しています。
『本当は、昔おられたような、「長寿さま」が
その町や村に一人お出でになれば
カウンセラーの仕事は必要ないのだと思っています。』
「長寿さま」という言葉だったように思うのですが、
意味は、「賢老人」又は「いい意味で世話好きな人」という
ことだったと思います。
私は、心が長寿な方なのだと思っています。
「心が長寿さま」は、その土地、町、村の事を、又その家のことを
昔(何代も前から)から現在に至るまで、
よ〜くよ〜く知っているという存在です。
(人の場合は赤ちゃんの時から知っています。)
だから、詳しい事情を一から全てを話さなくても、
「心が長寿さま」に
ちょっと話せば、悩みの深い事情がよ〜くわかって下さるという
ことです。
もちろん、「心が長寿さま」は、
その家のことを他の方に漏らすような事は
決してなさりません。
だから、昔、「心が長寿さま」がいらした時代は、
夫婦喧嘩も、近所での小さいモメゴトも、悩み事も、
ちょっとした事件も、なんでも、「心が長寿さま」相談すれば、
だいたいのことは解決したということです。
その土地ならではの問題がある場合は、
遠いところにおられる有名なカウンセラーに相談しても
解決するのに時間がかかるだろうということは
ちょっと考えればわかると思います。
(ただ、その土地に長く住んでいる人たちは、
その土地の背景にある特有の問題や気質や風土があるということには
気がつかないでいるものだそうです)
●まとめると、
その土地に住んでいる「心が長寿さま」は、
その土地のことならなんでもご存知なので、
その土地に住んでいる人の場合、
深い事情をいちいち話さなくても
その人にぴったり合ったアドバイスが出来るという事です。
『その人に合った、望みを活かす方法を知っておられる』
『その人に合った、生きる希望を持たせる方法を知っておられる』
だから、「心が長寿さま」という存在は大事である。
「心が長寿さま」になりましょう。
〜と、いう話だったと私はそう解釈しています。
現在でも 日本には「心が長寿さま」が、あちこちに
おいでになるのだろうと思います。
「心が長寿さま」を中心として、本当の意味の助け合いが
生きていて続いていくことを心から願っています。
それから「心が長寿さま」は、時には世の中の事も大きい声で
発言なさるのではないでしょうか?
教育の現場を競争のしくみにしてはいけない事を・・・
社会を弱肉強食の競争のしくみにしてはいけない事を・・・
乱文をお許し下さい
凡人主婦「心が長寿さまになりたいな」
今井啓子
----- Original Message -----
From: "株本 正貴"
To:
Sent: Tuesday, September 04, 2007 8:55 AM
Subject: [diversity:4799](10)実物の教育
> _Mailing___________________________Citizens_for_Diversity_in_Education__
> 鳥取市の株本です。
> 今日は少し長いですが最終回です。
> <地域で、「生きる力」が育つか?>
>>皆さんは、「なぜ、自ら望みを絶って、自分自身を自殺へ追い込むのか?」と思われることでしょう。それは望みを活かす方法を知らないからです。
>
> 望みを活かす方法を知らねば、その方法による行動を選択することができません。よって、その方法によらない選択をしたとします。ところが、その方法によらない選択をしないで、その(望みを活かす何らかの)方法として、「何とかする。」という選択肢もあるわけです。このように、敢えてその方法によらない選択をすることは、すなわち、自らその望みを絶つことです。
>
> 「わからないから何とかする。」、これはトライアル・アンド・エラーでしょう。これをわかるまで、何とかなるまで続ける。それをできるだけどこまでも継続・維持できるためにこそビジョンが重要なわけです。
>
>> これは簡単に言えば、積極性が向けられる方向の違いに過ぎません。ただし、そこにはビジョンがあるのかどうかと、そのビジョンが誘導する行動を選択できるかどうかによって段違いの結果をもらすのです。
>
> その行動を選択できないことにはセルフイメージが関わっています。人は成長するものでありながら、現在の自分のイメージが先入観となって、ビジョンの理想的な有り様の前に気後れしてしまうことによります。
>
> これを克服するメソッドについては、図なども活用した丁寧な説明が必要となります。
>
>
> さて、ここまで読み進んでいただき、皆さんは、「ビジョンを活用することが人間の特権でありながら、ほとんど活用されていない。」ことについて、どのようにお考えでしょう?
>
> 私は、現代人が、想像力を使って創造することのできない動物に近い、目先の享楽や困苦に振り回される動物的な生き方をしているのだと思います(動物たちに失礼かも知れませんが・・・)。とくに先進国の人たち程そうなのではないでしょうか?むしろ、現代文明に染まっていない人たちこそ想像力を活用しているように思います。たとえば、古代人や伝統的なネイティブ・アメリカンらは、そのような文化を民族における教育を通して伝達してきたのではないでしょうか。
>
> なぜ、私たちはそのようなことになってしまったのでしょうか?
>
> 瞑想を生活に取り入れる習慣は、日本では仏教における「 禅 」という文化によって存在していました。ただ、近代においては数や物質が強調されるあまり、それら瞑想に類するものの想念(イメージ)の目に見えないという非物質的であることが、一般社会から科学的でないとされて、ある種の軽蔑を受けて来たのではないでしょうか。
>
> 私たち文明人といわれる現代人は、このようにして長期的な未来を予期して努力することのない無気力人間になってしまったのだと思います。
>
> 私は、以上のようなビジョンの活用法を鬱や神経症の方々へ指導していますが、とりあえず、今回はこれで筆を置くことにします。
> 【MLコミュホームページ】http://www.freeml.com/diversity

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MLNo.4801
かぶもとさん
(3) 2007/09/04 14:48 [メール表示する]

鳥取市の株本です。
追伸です。
> 望みを活かす方法を知らねば、その方法による行動を選択することができません。よって、その方法によらない選択をしたとします。ところが、その方法によらない選択をしないで、その(望みを活かす何らかの)方法として、「何とかする。」という選択肢もあるわけです。このように、敢えてその方法によらない選択をすることは、すなわち、自らその望みを絶つことです。
そう考えてきますと、私たちは地球温暖化やエネルギーや食糧の危機に関して絶望的になっていますが、それらに対処するための、あるいは、新しく社会を作り直すビジョンを描かない(描けない)ということも、望みを捨てているということではないかと思えます。

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MLNo.4819
かぶもとさん
(3) 2007/09/30 14:18 [メール表示する]

株本です。
いま『結いの心』という本を読んでるのですが、大変思いやられます。
宮崎県南部にある綾町の町長さんだった人が書いた本ですが、この綾町が昔「夜逃げの町」といわれ、現在では人口7000人ほどの町に、年間120万人ほどの観光客が来るのだそうです。
この郷田實さんという元町長さんは発想が斬新なのですが、たとえば、町になって50周年の記念行事の実行委員会で、もういっぺん村にしたいといったのだそうです。
実は、昔は冠婚葬祭も田植えも屋根や道の普請もなんでも皆でやった。それが昔の農村の景色で、このことをお土地では「結い」といったのだそうですね。でもこの農村風景はどこかへ消えてしまった。今ああいう生活文化が残っていたら、日本どころか世界中から人が集まってくる町になる、ということなんですね。
しかし、いまはそのような助け合いや自治の精神も失ったというのです。そして、教育の基本は家庭教育であり、子どもたちはそのような親を見て育つ。このような大人を手本にして子どもが成長すればこれからの社会はどうなるのか。今の大人たちを見ていると、今の子どもたちは不思議なくらい良く育っているというのです。
今の大人たちにはビジョンも想像力もない。このような大人を手本に真似て育つ子どもたちはどうなるのでしょう。ますます動物的にならざるを得ないでしょう。
笑顔を交わすだけのラポール(親和関係)や意見の交換程度や根回し(馴れ合い)をコミュニケーション(意思の相互理解)とか議論と勘違いするような大人に、じっくり腰をすえた話し合いを必要とする地域の助け合い(自治)を運営することは不可能です。
両者のある着地点をめざしたり、相手を理解するにはビジョニングや想像力を必要とします。健全な議論やコミュニケーションは大人にも難しいのでしょう。いったい、今の子どもたちはどのようになってゆくのでしょう。

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MLNo.4833
かぶもとさん
(3) 2007/10/03 12:26 [メール表示する]

株本です。
> この郷田實さんという元町長さんは発想が斬新なのですが、たとえば、町になって50周年の記念行事の実行委員会で、もういっぺん村にしたいといったのだそうです。
郷田實
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E7%94%B0%E5%AF%A6
郷田さんの照葉樹林文化の町づくりとしての最後の仕事は、綾町に「賢治の学校」の自然農実践場を開校したことです。自然農とは、「耕さず、肥料、農薬を用いず草や虫を敵としない・・・」農法で、人を含む環境にもっとも負荷を与えない農法といわれています。
今、世界中で有機農法を含むこのような農法による、持続可能性のための革命が進みつつあります。その主役の多くは経済的に豊かでないため、サイレント・レボリューションといってもよいでしょう。
農業の変革は、コミュニティや文化を再生し、社会をも改革してゆくでしょう。これこそ知識と実践による実学を通した教育の成果といえます。

- MLNo.4836 かぶもとさん (3) 2007/10/03 17:35 [メール表示する]
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MLNo.4854
かぶもとさん
(3) 2007/10/06 19:15 [メール表示する]

株本です。
今まで母の畑で農作業を手伝っていました。私の畑でもサツマイモを掘ったのですが、上手に掘れないので傷だらけです。
母の畑は借りている畑ですが、母を入れて3人の80歳代のおばあさんたちが野菜作りをしているのです。
昔、盲学校の先生をしていたというおばあさんは、鳥取県の大山(約、1700メートル)に「ほれ、上がれ。ほれ、上がれ。」と、生徒たちを登らせていたそうです。
それでお孫さんが高校生で、それが私の母校なのですが、このたび修学旅行で台湾へ行くのだそうです。私たちの頃は京阪神でしたね。
皆で、いったい高校生が台湾へどうするんだろう?と話しました。あるおばあさんは学校の先生は贅沢だといってました。世間では親たちはひーひー言ってるのに、自分たちの基準に合わせて行き先を選んでると。
修学旅行へ、農山村へ田植えとか稲刈りに行ってはどうかという意見もありました。そういえば最近の山村は宿泊施設も充実していますね。
国土の7割が森林である日本の木材の自給率が2割以下、それも製材用材では13%だそうです。この30年で森林体積は2倍になっています。
食糧自給率は40パーセント、特に穀物の自給率は28パーセントしかありません。しかも、米が入っての数字です。
休耕田や荒れた森林の近くへ行って観察することは学習にならないのでしょうか?


