昨日に続いて、昭和二十年一月一日の日記の紹介を続ける。
昭和二十年
一月
一日(月) 薄曇のち晴
○運命の年明く。日本の存亡この一年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ。
○昨夜十時、午前零時、黎明五時、三回にわたりてB29来襲。除夜の鐘は凄絶なる迎撃の砲音、清め火は炎々たる火の色なり。浅草蔵前附近に投弾ありし由。この一夜、焼けたる家千軒にちかしと。
○午前高輪螺子にゆく。振袖にかっこ下駄の愛らしき少女いずこへ消えたりや。凄涼の街頭、ただ音たててひるがえるは戸毎の国旗のみ。高輪螺子にて先日の鶏、その他くるま海老、豚などにて飲み、酔いて帰る。午後より家にてまた飲み、夕ついにエルブレッヘン(嘔吐)し、泥のごとく眠る。
山田風太郎 『戦中派不戦日記』 (講談社文庫)
昭和二十年、山田風太郎は東京在住の、23歳になる医学生だった(「エルブレッヘン」という表現に反映されている)。高輪螺子(らす)は、確か、工員時代の取引先で、いろいろと世話になっていたようである。
元日からの空襲の様が見て取れる。
昭和二十年一月一日
遅い朝食(雑煮)をとっていると、平野徹君(平野謙令弟)来訪。海軍少尉の服装なり。
やがてまた海軍少尉来る、河出書房にいた飯山君である。聞けば同期の予備学生である。吉川誠一君来る、海軍報道部勤務、海軍ばやりである。
三君とも夜までいる。平野君ひとり、あとまで残る。しきりに死を口にする。フィリッピンに赴任するのである。冗談半分で死のことを言っているのかとおもったら、ほんとうに悩んでいるらしい。
高見順 『敗戦日記』 (文春文庫)
高見順は、その年38歳になる。鎌倉在住。前年6月から12月まで陸軍報道班員として、中国大陸で従軍(「支那から帰って去年いっぱい粥食で通した。アメーバ赤痢気味」という記述が翌日の日記にある)。
1月14日は東京に出、「汚い、うすよごれた道路だけ」となった銀座の光景を日記に残している。
一月一日 (月)
昨夜から今晩にかけ三回空襲警報なる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない。
配給のお餅を食って、お目出度うをいうと矢張り新年らしくなる。曇天。
日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だとかいって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼等が、ほんとに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼等は第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼等は戦争の英雄的であることに酔う。第三に彼等に国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
当分は戦争を嫌う気持が起ころうから、その間に正しい教育をしなくてはならぬ。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
日本で最大の不自由は、国際問題において、対手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできぬ。総べての問題はここから出発をしなくてはならぬ。
日本が、どうぞして健全に進歩するように ― それが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命を辿るのだ。いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように ― 。「仇討ち思想」が、国民の再起の原動力になるようではこの国民に見込みはない。
僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世をめがけて努力しよう。
本年の予想 ― ドイツは本年中に敗戦するであろう。大東亜戦争は本年中には片はつくことはないであろう。ダンバートン・オークス案は成立するであろう。そうすると日本だけが、孤立奮闘するような事情が生まれるであろうことも想像できる。
清沢冽 『暗黒日記』 (ちくま学芸文庫)
清沢は、徹底したリベラリスト、愛国者。
同年5月21日に、肺炎のため、築地の聖路加病院で急逝。5月26日の空襲の前である。8月15日の亡国の日を迎えることなく、そして戦後の日々を経験することなく、55歳で世を去ってしまった。
亡国の年の正月元日。様々な思いがあった。









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こういう風に読んだことがなかったですね。
なるほどとうなずくと同時に、さて私はと・・・