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続・文部科学大臣の知性という問題 (現代史のトラウマ 27)

2007/02/28 15:45

文部科学大臣の知性がはらむ問題を考えてきた。

国家と国民の関係をめぐる、安倍政権のスタンスの問題でもある。

大きな国家へのノスタルジーと、小さな国家の実現の必要という現実の間で、スタンスが定まっていない印象を受ける。
大きな国家といっても、社会民主主義的福祉国家ではなく、大日本帝國へのノスタルジーなので、問題は、余計に複雑である。

前政権以来、「自己責任」をキーワードに、国家による福祉政策の縮小が目指されて来ている。
一方で、教育基本法「改正」や「教育再生会議」の議論には、教育行政に対する国家関与の増大の意図が見える。予算措置抜きの、法による縛りだけが増えていくのが現状であろう。

「自己責任」の根幹には、自立した個人の存在が求められる。
教育行政の方向は、自立した個人の育成ではなく、国家に依存した個人の育成にあるようにしか見えない。

両立可能であろうか?

小さい政府を可能にするのは、国家に対する国民の依存度の縮小である。
国民の国家への依存度の縮小を支えるのは、国民の精神であり、それを形成するのは教育である。

教育システムの未来像を構想するにあたって、国家への依存度の高い人間育成を目指しながら、国民の国家への依存度の縮小を目指すことが、果たして、可能なのだろうか。

安倍政権のヴィジョンの支離滅裂さが、まさに、ここにありはしないか。
このような構想に疑問を持たずにいられる人間の知性は、疑われてしかるべきであろう。


ここに「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」という伊吹文科相の発言を重ねてみよう。何が見えてくるか。

国民への福祉政策の提供を国家の義務からはずそうという方向がまずある。
国家による福祉政策は、本来的に、人権の充実を目指すものである。
つまり、国家による福祉政策の縮小の意味するところは、人権への国家の顧慮の縮小なのである。
そのような政策を推進する途上の内閣の大臣の発言として、問題の伊吹文科相の発言を読み返せば、その含意は明確となる。
人権のやせ細った国家を目指す者にとっては、人権をめぐる当然の主張も、「食べ過ぎ」に見えてしまうことは、当然のこととして理解出来るのである。

そのような意味では、大臣の知性は、福祉削減という安倍内閣の方向性とは整合性を保っていると言えるかも知れない。
しかし、世界史などの未履修問題を監督する官庁のトップとしては、その世界史理解はお粗末と言うよりない。


世界史だけではない。
「イラクを例に出し」、日本を「宗教的に自由かっ達な国民が作っている」という発言。
イラクの現状をもたらした経緯への無理解がそこにある。国際感覚の欠如と言うべきか。世界史と共に地理のお勉強も必要に見える。
同時に、一向一揆や、比叡山焼き討ち、キリシタン弾圧、島原の乱、明治になってからの廃仏毀釈にキリスト教弾圧、昭和になってからの大本教への大弾圧。そんな、日本史の常識も大臣には思い出して欲しい。

それに、「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実」とおっしゃいますが、それは確かに、大和民族=日本列島の住民と定義すれば、ということに過ぎない。これは、共産主義国家は労働者の代表により統治されているのでそこに労働問題は存在しない、と主張する共産主義者のレトリックと同型のものである。
現実には、民族の同質性と異質性には客観的な基準は存在しないのであり、関東人と関西人を、その言語・習慣において異民族と主張することも可能なのである(ヨーロッパの現実を見よ)。民族意識は、同質性の中から異質性を発見すること(異質性の中に同質性を見つけるという方向もある)で見出されることもあることを忘れてはならない。
伊吹文科大臣の発言は、民族をめぐる問題に対する人類学的、歴史学的蓄積への無理解をも示していることは確かだ。

大臣、もう少し知性を、そう思わずにはいられない。


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最新コメント

  • Comment : 1
    まみちゃーな
     2007/02/28 16:20
    靖国問題ひとつ、まともに解決できない国が「宗教的に自由闊達」・・・。

  • Comment : 2
    さん
     2007/02/28 17:31
    あ゛〜、今度は文部科学大臣ですか。
    安倍内閣も人材最悪ですね。

     私は思うのはいつも、誰がこんな人を国会議員に選んだかってことですよ。
     国民主権? 国民最悪ですね、ってことになります。日本の戦後政治は衆愚政治の見本として後世に残ることになるのかもしれません。だとするとすごく貴重なものを見聞・体験しているのかも

  • Comment : 3
    緋水
    緋水さん
     2007/02/28 21:48
    こんばんは。
    俺もこの問題(発言)はネット上で知りましたが
    なんだかもう「知性」とか「賢い」とかそういう言葉が足りないと言うよりも「無い」ですね。

    以前のどっかの大臣が発した問題発言もそうですが
    本当にその地位に立てるほどの知識があるのか疑問です。

  • Comment : 4
    あつこ
    あつこさん
     2007/03/01 00:32
    まあ そうなんですか?
    ビックリして しまいます。
    最近は、日本の政治家 が なにを して、どんな 発言を
    して いる のか まったく、知りません ので。。。
    恐ろしい、ですね。つい このあたり でも まあ 上に
    たつ 人達が、きちんと して くれて いるだろう。。。
    等と、考えて、チェックを 怠っていますと、権利の乱用
    を する のです。見張って いないと だめ ですね。
    自覚が、無いの ですね、一人で 偉くなった と 思うのでしょう。

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2007/03/01 13:47
    やわなまみちゃーな様

    文部科学大臣は、確かにそうおっしゃったらしい。

    そういえば、例の「水からの伝言」に、各大宗教の名前を書いた紙を水に「見せて」、その後の氷の結晶を観察するという「実験」がありました。
    そこでも、イスラムを戦争や闘いのイメージで捉える記述がありました。完全なイスラム教に対する偏見です。

    結局、その程度の認識なんでしょう、文部科学大臣も。

  • Comment : 6
    umasica :桜里
     2007/03/01 13:51
    やわらか☆不思議猫様

    とにかく、複数政党制があり、投票の秘密が保障された自由選挙で選ばれた国会議員。そしてその多数派が内閣を組織している、というわけですから、大臣がバカなら、その元のバカは誰だ、ってことになりますよね。

    その元=国民、てのは悲しいけど現実でしょうねぇ。

    まぁ、安倍内閣、歴史的ではあるでしょうね。

  • Comment : 7
    umasica :桜里
     2007/03/01 13:54
    緋水殿

    ホントに「知性」とか「見識」というものを感じられません。情けないと言うよりないです。

    まぁ、国民の代表として考えれば、そんなものかと思わざるを得ないところがあるのも、これまた(国民として)情けないですが。

  • Comment : 8
    umasica :桜里
     2007/03/01 13:59
    あつこ様

    このところの安倍内閣に関しては、もう、怒るより「情けない」という感じの方が勝るような、どうにもしようがない状態です。

    この状態にもかかわらず、野党もマスコミも力不足。いつまで続いてしまうのかと思うと……

  • Comment : 9
    s06007
    s06007さん
     2007/03/03 08:35
     伊吹氏の発言は福祉縮小傾向にもっていきたいという本音ということですか。そういわれてみるとなるほどと思ったりしました。実際、少なくなろうパイをどう配分するか、誰が政権担当だろうと頭痛い話だと思います。でも人権縮小に繋がるとしたら穏やかじゃないですね。これで次々と人が死に追いやられるとしたら私は嫌ですね。
     大和民族がずっと支配してきたというのは、乱暴な発言ですね。そして関東と関西人は別民族と定義しようとすればできなくもないという桜里さんも流石ですね。司馬遼太郎は幕末日本をヨーロッパに例えていたことを思い出しました。
     日本人は実際は複数の部族がかなり昔(まあ文字を使い始める前といえばわかりやすいですかね)にミックスしてしまってルーツがたどりにくくなっただけであって元は一つではなかったのではないかと私は思っています。縄文と弥生は違うぞというのは古代史好きの人達ではだいぶ喧伝されていますからね。関西・関東は後世にまた文化的なところで色が出てきたのでしょうけど、関西が弥生色が濃い、アイヌ・東北、南九州・沖縄は縄文色が濃そうな印象があります。それでもミックスして同質性の方がもっと強いとは思います。でもアイヌは独自性が強く別民族として自他ともに認められているのを忘れているかあえて無視した発言でもありますよね。
     それにしても時の文部科学大臣伊吹氏、大丈夫か?。

  • Comment : 10
    umasica :桜里
     2007/03/03 12:25
    s06007様

    伊吹大臣も、どこまで何を自覚して発言しているのか不明ですが、大きな流れの中で発言を解釈すれば、そんな本音にも見えてしまうぞ、というわけです。

    先住民としてのアイヌ民族や、独立国家であった琉球王国・沖縄の位置付け、在日の人たち…、という視点から捉えることも出来るのですが、もっと原理的な問題、「民族とは何か」というところから考えてみました。
    「民族」というのはそれぞれの個別の歴史の産物であることに注目出来れば、ということですね。
    明治の初め、津軽の人間と、薩摩の人間で、言葉(口語)が通じたとは思えません。これでは異民族、ですよね。

  • Comment : 11
    こもさと
     2007/03/03 15:25
    大臣の皆さんってどうして、ああも問題発言してしまうのか、不思議になります。
    問題発言して、バッシングにあって痛い目見ているのですが、学習効果がないようですね。
    大臣の発言というのは、重みも責任もあるのに、です。
    ところで、義務と権利の関係はきちんと学校で教育しておくべきですね。

  • Comment : 12
    umasica :桜里
     2007/03/03 18:39
    こもさと様

    どんな発言も結構なのですが、そこに信念があるのなら、きちんと言葉にして表明しなければなりません。
    きちんと説明し、反対者を説得しなければならないはずです。

    それが出来ていれば、たとえ価値観が反対であろうが、相手の価値観のあり方を理解・尊重することも出来るはずです(同意することとは別ですが)。

    実際に行われるのは、単なる言い逃れ・ごまかしだけです。どこに信念があるのか、その存在自体が疑問となります。恥ずかしい限りです。

    義務と権利の関係が相補的なものと成るのは、支配―被支配の関係性の下ではないでしょうね。
    日本語の「公(おおやけ)」は「お上」のことですが、「公共性」という場合の「公」は「お上」のことではないはずです。
    権利において平等な個人が作り上げる社会があり、そこで社会(公共的なもの)を維持する上で「義務」の問題が浮上するわけです。
    そこを理解出来ていない議論は、インチキなものになってしまいます。
    そこをきちんと教育すべき文部科学省の大臣が、あの程度の理解しか出来ていないという事実は、悲しいことです。

  • Comment : 13
    にんにん
     2007/03/04 00:05
    文科大臣の発言に、「権利と義務は表裏一体」ってのが出てきましたね。
    よく日常会話やネットのディスクール(ディスカッションでない井戸端ガヤガヤ)の場で見かける論調だけど、伊藤塾塾長の伊藤真の講演で以前何度も念押しされたことを思い出しました。


    「権利と義務は全くの別物です。発せられる方向も機能も。」


    だから、「これしてあげるから、代わりにこれはあきらめなさいね」などという論そのものが詭弁であるわけで、彼らの政権が憲法を攻撃する最によく「権利ばかり書いてあって義務が欠如している」ってのも意図的な無理解でもって発せられた詭弁ですね。

    憲法は国が国民に約束させられている権利の集まりです。権利ばっかり書いてあるに決まってるんですよ。

  • Comment : 14
    umasica :桜里
     2007/03/04 13:54
    にんにん様

    そうですね。

    そこでは国家をどう捉えるか、そこもポイントの一つでしょうね。

    支配―被支配の関係で見る限り(非常に現実的な観点です)、権利=支配者へ対する被支配者の主張、義務=被支配者に対する支配者の押し付け、とならざるを得ません。
    そのような国家観の枠組みでは、決して「権利と義務は表裏一体」にはならないわけです。
    そこにあるのは、当然、支配者と被支配者の闘いであり、権利と義務の闘いであるわけです。

    おっしゃるとおりで、私も一番聞いていて腹が立つのは、床屋政談レベルの「近頃の若者は権利ばかり主張して、義務を果たすことを考えない」というハナシですね。
    権利は主張するものであって、「果たすべきもの」なんかでは決してないということ。そんなこともわからないで、聞いた風なことを言うんじゃねぇ、って思います。

    私の文脈での、権利と義務の相補性という言い方は、まったく前提が異なるものです。
    国家が責任ある自立した個人の集合体、自立した個人の共同性の産物と考えた時のみに有効になる発想です。
    公=お上、ではなく、公=公共性=自らの責任において構築する社会、というような理念に支えられた国家観を前提にしたときのみに当てはまるものです(そんな国家が実現されているのかどうか、ではなくあくまでも理念の問題として)。
    ここでは、国民は国家から何かをしてもらう関係にはないことになりますね。あくまでも自分の問題。何かをしてもらう代わりに何かをあきらめろ、とは自分に向かって言う言葉ではありません。これをしようと思ったら、あれもしておかなくてはならない、それだけのことになるわけです。

    旧教育基本法を、その個人主義的理念ゆえに排撃したような連中には、決して「権利と義務は表裏一体」などと言ってもらっちゃぁ困るわけです。

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