umasica :桜里さんのマイページ

正義と平和の間の真理

2007/03/25 21:44

教育基本法について、久しぶりに書いておこうと思う。

まずは、今日の毎日新聞朝刊2面の「発信箱」欄、編集局の広岩近広氏の署名のある文章を引く。

 今年の小学1年生は、改正教育基本法のもとで義務教育のスタートをきる。私が懸念をいだくのは平和教育である。
 というのも、昨年12月に改正された教育基本法の前文が旧法と異なっているからだ。「人間の育成を期する」につながる記述で、旧法には「真理と平和を希求する」とある。ところが新法では「真理と正義を希求し」に変わった。「平和」がなくなり「正義」が登場したのである。
 私は「正義」という言葉にうさんくささを覚える。駆け出し時代には、支局長から「新聞記者は正義の味方・月光仮面になってはいけない」と諭された。一方的な視点で記事を書くなということで、その通りだと戒めている。それだけではない。米国の例を持ち出すまでもなく、他国に軍事介入するときはたいがい「正義の戦い」となる。こうなると「正義」は「平和」の対極に位置するだろう。

次に、新旧教育基本法該当箇所を示す。

 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造を目差す教育を普及徹底しなければならない。 (旧教育基本法)

 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を追求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育を推進する。 (「改正」教育基本法)

ここでは、「個人の尊厳」、「真理」、「平和」、「正義」、「公共の精神」、「伝統」といった文言にこめられた意味が問題となる。

それぞれについて論じておきたいところだが、ここでは、問題の「平和」から「正義」への変更がはらむ問題だけに絞って、話を進めておきたい。

「平和」とは誰でも納得出来る定義のある状態でる。つまり、戦争状態がそこにあってはいけない。国家間の戦争に加え、内戦状態や武力衝突のない状態、広義には治安の安定した状態まで含まれるだろう。武力による支配、暴力による支配の排除された状態だ。具体的内実のある状態、そう述べることが出来るだろう。

「正義」は、それとは異なる。正義には具体的内実はない。
不正な状態があり、そこからの補正が「正義」の作用である。固定した正義の立場は存在しない。
ユダヤ人に対するナチスドイツの迫害から、ユダヤ人を救い出すことへの努力は「正義」に適った行為であろう。この時、「正義」は迫害されたユダヤ人の側にあった。
しかし、パレスチナの地で、パレスチナ人の人権に対する侵害行為を公然と行なっているイスラエル国家の行為を、「正義」に適った行為と考えることは出来ない。イスラエル国民の側に、つまりイスラエルに住むユダヤ人の側に「正義」があるとは考え難い。
「正義」に適った行為があるとすれば、イスラエル国家による人権への公然たる侵害からパレスチナ人を保護することにこそあるだろう。

人間が人間を踏みつけにすること。そのこと自体は、避け難いことである、と私は思う。望ましいことではないが、生じてしまうことであると思わざるをえない。それはリアリストとしての私の認識である。
しかし、そのような状態に対し敏感になること。そのような状態の発生を感知したら、その是正を目標とすることは出来る。
その「是正」への努力、そこに「正義」は宿るだろう。人間が人間を踏みつけにしているような事態を放置しないための努力、そう言えばよいだろうか。

さて、そのように考える私として、先の「改正」教育基本法の文言に、どこまでそのような反省的視点が盛り込まれているのか、大きな疑問を持たざるをえないのである。
新旧教育基本法の字句の相違、大したことはないとも考えられる。
しかし、「改正」の経緯、現在までの教育再生会議内での議論のあり方を見る限り、先に紹介した広岩氏の危惧を否定出来るほど楽観的にはなれないのである。


人間が人間を踏みつけにすること、「正義」という口実の下に人間が人間を公然と踏みつけにすること。
それは人類の歴史において、実にありふれた出来事であった。
そのことをこそ、まずは見つめておくべきである。そう言わざるを得ない。


 読み込み中...
Binder: 現代史のトラウマ(日記数:647/全体に公開)
Gg[ubN}[N
最新コメント

  • Comment : 1
    はむろん
     2007/03/26 01:26
    確かに「正義」の概念は見る方向や立場によって、全然変わってきます。
    これまでの「正義」について、政治家(屋?)たちは何の疑問も持たずに生きてきたのでしょうね。
    とても残念なことです。
    4月から、一体どうなってしまうのでしょうか…

  • Comment : 2
    bon
    bonさん
     2007/03/26 01:51
    桜庭さんの文章を読んである人を思い出した。

    その人の名は 辺見 庸 氏だ。

    数年前に辺見さんの講演会行った。内容は確か非戦だった。

    その中でクラスター爆弾を激しく糾弾された。

    現物の破片を聴衆の一人一人に手渡しながら訴えて居られた。

    何が正義だ。武器を持たない子供達の上空に落として、何が正義だ。

    アメリカの有名な工科大学に入学し、人を殺す武器を研究し、開発し

    明らかに無力な人々を攻撃して真理も正義も有るものか、と

    醒めた言葉でお話しされた。

    確かに同感だ。石の投石にミサイルで反撃する正義なぞある筈が無い。

    おまけに浮れた日本が追従することなど一理も無い筈だ。

    昨日のニュースで英国がクラスター爆弾の不使用を決議したそうだが

    日本も声高に言うべき事だろう。

    そのような意思表示をして始めて国内の諸問題解決の真実味が国民の心

    に響く政策が出来る筈だ。

    今の日本に正義などが見えるのだろうか甚だ不信に思う。

  • Comment : 3
    bon
    bonさん
     2007/03/26 01:55
    すみません!お名前を友達と書き違えた。結構、怒ってしまいました。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2007/03/26 21:26
    はむろん様

    昔、ある席で、人権教育の必要性、緊急性を情熱的に説く小学校の先生と出会いました。
    話を聞いていて、どこか虚しい。そこで、「人権て何なんですか?」って質問したら、答えに詰まってしまいました。
    人権について一度も考えたことなしに、その先生は、人権教育を他人に説いていたというわけでした。

    そのあとに、じゃぁ、自分なら人権についてどう説明するだろうか、何を核心と考えるだろうか、そう自分に問いかけてみました。

    そんな中から、「人が人を踏みつけにする状態」を回避することを、私なりの「人権尊重」の定義として考えるようになりました。


    とにかく「正義」であれ「人権」であれ、言葉の内実を考えずに議論したり実践したりすることには慎重でありたいと思っています。

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2007/03/26 21:33
    ん?!様

    いやぁ、怒りが伝わってきました。


    実際、パレスチナでの、イスラエルの戦車に向かって石を投げるしか出来ない状況には、言葉を失います。
    クラスター爆弾についても、劣化ウラン弾についても容認してしまう日本政府の対応ほど「正義」の実現から遠いものはないでしょう。そのことに無関心な日本国民もまたどうしようもない存在と言われても反論しようがありません。

  • Comment : 6
    umasica :桜里
     2007/03/26 21:37
    ん?!様

    そういう問題への関心が、「改正」教育基本法で日本国民のものとなるのかどうか?
    あやしいものだとしか言えないのが現状でしょう(教育再生会議の議論を見る限り)。

  • Comment : 7
    s06007
    s06007さん
     2007/03/29 13:42
     私は、今のところですが、教育基本法はせいぜい大骨しか示していないし、概要反対する程のものでもないと思う立場のものです。うまく現場が料理できるのなら悪くないのではと思っています。
     今回新旧比較で「平和」が「正義」に変えられているのですね。これについてはどちらも言葉自体は素晴らしいもので否定できない立派なものだと思います。が、なぜわざわざ変えたのか理解できませんね。うがった見方をすれば、「さてこれから戦争でもするか」という火にそそぐ油になりかねないといわれればそうかもしれませんね。まあ油とまではいわなくても前は消火能力のある法文だったのに、とは言えるかもしれません。
     確かに「正義」は暴力誘引剤の面があるのでやっぱり慎重であるべきですよね。

  • Comment : 8
    umasica :桜里
     2007/03/31 10:34
    s06007様

    旧教育基本法の文言自体に問題はなかったというのが私の考えです。
    旧教育基本法の理念の実現への努力は払われることは無かったというのが実際のところだと思います。
    つまり、法の条文の拘束力とは、その程度のものでもあるということですね。

    であれば、「改正」の必要自体がアヤシイと考えられてしまうわけですよ。何か動機・目的が無い限り、「改正」の必要はないわけですから。
    旧法では達せられなかった目的があり、そのための「積極的な」行為であるように見えるということですね。
    旧法の理念実現への消極的な対応と今回の積極的な「改正」への対比にアヤシサを感じるというわけです。


    今回の「改正」法条文は、旧法が理念の提示にとどまっていたのに対して、細かく「別に法に定める」という形式を使って、国家の教育への統制権を確保しようとしているように見えます。そこが問題に見えますね。

  • Comment : 9
    こもさと
     2007/03/31 11:32
    教育基本法の前文が平和から正義に変わっていることは知りませんでした。
    ご指摘の通り、これは大変革ですね。
    平和というのは争いのない状態ですから、一通りしかありませんが、正義というのは、立場や価値観・宗教観で対立するものですから。
    アメリカが主張する正義に同調することが目的であることは明白ですね。
    これはイスラームや北朝鮮からは、平和を放棄してアメリカの腰巾着として戦う国家になったという宣言にしか読み取れないでしょう。
    国がそういう決意をするということでしたら、きちんと国民にも覚悟を求めることが必要でしょうね。そうでないと国民は国家への信頼を失ってしまい、国民のフォロワーシップが失われてしまうという問題も起きると思います。

このブログにコメントをつけるには、ログインする必要があります。
マイページをお持ちでないひとは「マイページを作成する」ボタンを押してマイページを作成してください。
不適切なブログを見つけたら、こちらからご報告ください!

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


http://www.freeml.com/feed.php?u_id=316274&f_code=1



Copyright(C)2017 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.