umasica :桜里さんのマイページ

現代史のトラウマ、番外編 『六ヶ所村ラプソディー』観てきましたフツー日記 その2

2006/10/11 17:32

問われているのは、真の意味での「自己責任」である、という言い方もできるでしょう。長期的視野を持つ、リスクも見つめる、その上で自身が判断する。判断に基づいて行動する、行動の結果に責任を持つ。これができるかどうか。
一人の力は無力であり、行動の結果が望むものの実現をもたらすという保証は無い、わけです、現実には。しかし、ここで妥協せずに生きるということは、結果として、誰かのせいにする、という態度とは無縁の生き方をもたらします。
現実には再処理工場が稼動へ向けて既成事実を積み重ねていく中、そこで合意することを拒み、反対という姿勢を保ち続け生きる彼ら・彼女らの姿の輝きの源がそこにあるように感じられました。他人のせいにするヤツは醜い、ということです(妥協し、合意していってしまった人々を責めるわけではありません ― それぞれの事情に対する想像力を失ってはなりません)。自分自身の態度決定に当たって、自身に問いかけるべき性質の問題として、ということです。

現実には、再処理は開始され、微量であれ、放射性物質の空気中への放出が開始されてしまっています。これまで、有機栽培、無農薬栽培にこだわることによって、直接消費者と結びついて来た農家には、危機的状況であるという現実も描かれていました。放射能に汚染された農産物、という現状は否定できなくなってしまったわけです(再処理施設の危険性を言えば言うほど、自らの生産物の汚染状況も否定できなくなるわけですから)。解約されるケースも出てきている現状が紹介されていました。
ここで、チェルノブイリの事故当時の仲間との会話を思い出しました。酒を飲みながらの話です。よくズブロッカというポーランド製ウォッカを飲んでいた頃の話ですね(ギンギンに凍らせたヤツがうまい)。ビンの中に、バイソングラスという草が入っているんですが、もうこれからは、これも汚染されて、飲めなくなるねぇ、なんて話していたわけです。そしたら、仲間の一人が、いや、今だからこそ飲まなきゃ、って言うわけですよ。飲んでこそ、ポーランド人との連帯じゃないか、って言うわけ。白ロシア人、ウクライナ人との連帯だ、ってね。で、そーだ!そーだ!!と酔っ払いたちが盛り上がった夜のことを。
たわいない話ですが、他人事(ひとごと)ではなく自分たちのこと、って考えた時に、こういう選択もいいな、って思ったのは確かです。程度問題ではありますけどね。ただ、こんなエピソードも、今後の自分自身の態度決定に当たって、冷たい他人ではないふるまいにつなげられるものじゃないか、って思ったので書いておく気になりました。汚染を隠して売ることは許せませんが、避けられぬ汚染を共有することも、私たちには出来る、ということです。

生まれ育った場所で生きていく、ということを考えた時、現実に仕事の無い中、原子力産業に雇われて生きていかざるを得ない人々を責めるのではなく、そのように追い込んでいったメカニズムを直視すること。その時、自分自身が追い込んだ側にいることに気が付くこと、これが出来なくては、この映画を観た意味はない、とも思いました。また、チェチェンの紛争を逃れて、とにかく武力による殺害を免れうる場所として、チェルノブイリ近郊の無住地帯に移り住む人々の姿も思い出しました。まずは、目前の危険を逃れること、弱い人間に出来ることはそれだけだ、という現実世界で追い詰められた人間の姿!


そんなことを考えさせられながら、ポレポレ東中野を後にし、十数年ぶりに、山手通りを渡った先に続くギンザ通り商店街を散歩しました。うねうねと続く、道幅狭く車も通らぬ商店街。途中の中華屋さんで五目焼きそば(好物)を食べ、屋号を見たら茉莉。昔の散歩友達と同じ名前。いったい彼女は今…、なんてことを考えながら歩き続けると、早稲田通り。中野方面に向かって歩きます。ついにオタクの殿堂と化した中野ブロードウェー到着。今日はかああひる・とろろ丼母娘が一緒ではないので、ただ一階を通り抜け、家路へと向かいました。

と、臨時フツー日記でした。皆様も機会があったら映画ご覧になって下さい。


Binder: 現代史のトラウマ(日記数:665/全体に公開)
Gg[ubN}[N
最新コメント

  • Comment : 1
    まみちゃーな
     2006/10/11 17:53
    なるほど、なるほど。土とともに生きる農家は深刻な状況に置かれているのですね。知りませんでした。チェルノブイリもいまだに悲惨な状態が続いていますよね。時間がたつほど問題は根深くなっていっています。私は原発で働いている人たちも気の毒だと思います。他に産業があったら、そちらで働きたいと願っている人たちだって多いはずなんです。そういう危険と隣り合わせで働かざるを得ない人たちの不安、地域住民の不安、客観的なデータをすべて隠蔽している政府には憤りを感じます。
    24時間営業のショッピングモールはもはや当たり前。我が家の近所にはそんな巨大モールが3つあります。今4つめが建設中です。それを「便利になってよかった」と喜ぶ人々、オール電化住宅のCMを見て無邪気に憧れる人々を見ると、本当に寒気がするのです。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2006/10/11 18:06
    とにかく、無感覚、無関心はいけませんね。それで、最後は他人のせいにする。それだけはしたくない、ってのも一つのプライドのあり方だと思っているんですけど。
    あの正論・諸君!的、エライのは俺だ、俺は間違っていない、っていう「プライド」ってのはとっても貧しく見えますね。周りからは尊敬されないタイプだよね。だから余計意地になるんだろうけど。カッコワルイよね。

  • Comment : 3
    斎藤博之
     2006/10/11 23:18
    この映画は、いちど見ておきたいとは思っていました。
    六ヶ所へは様々な取材に出かけています。足を運ぶたびに、海と沼と大地とに恵まれたこの村の豊かさを、再発見させられます。「米が穫れない」という一点で、原子力の賛成派も反対派も、この土地を「寒村」であるかのように語ってきましたが、ほんとうはこの村は豊かなのだということが忘れ去られていると強く感じます。
    賛成派も反対派も「経済」というフィルターでこの村を見ているのです。その「近代」の眼差しこそは、原子力として表象しているのだ、と私は思います。
    だから、わたしの仕事は、「経済」の物差しで語られる以前の、人びとの暮らしを復権すること。大声で外側から語るのではなく、村びとの静かに語りかける言葉に耳を傾けること。「語る」のではなく、「聴く」ことに徹したいと思っています。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2006/10/12 18:34
    映画も、基本的に「聴く」、「見る」、という姿勢で一貫していますね。賛成派のクリーニング屋さんや、土建屋さんの姿、その発言も、「聴くべきもの」として、記録されていました。

    また、泊の浜のシーンだったと思いますが、昆布の仕分けをしているバアサン達の会話シーンで、かつて(といってもオオムカシの話ではなく、話者の経験として)貨幣を介在させずに、直接の交換で生活できていたというエピソードが出てきていましたね。
    豊かであった生活が、近代的貨幣制度の下に巻き込まれていくことによって、その自立性を失い、全ての価値が貨幣換算で語られていくようになっていってしまうわけですね。近代以前(概念としての近代ですね、六ヶ所村も含めて世界規模で、現在進行形の事態でもあるわけです)の生活の豊かさ、に対する想像力が失われていってしまうわけです。カネを持たずとも生活できていたのが、貨幣を介在させることにより、生活が成り立たなくなっていくわけです。
    お互い、そこで暮らし続けていく関係がある限り、長期的視野での下(農業とはそういうものです ― 収穫までの時間、間歇的な不作と豊作)での、現物の、借りたり貸したり、やったりもらったり、が可能であったわけですが、貨幣がそのような関係性を崩壊させていくわけですね。
    そのような過程の進行が基層にあり、その上に企業や国家システムによる「経済」の論理が展開し、状況を支配していく。六ヶ所村の場合は、それが特に原子力産業という一番厄介なものであったがために、どこよりもやりきれない状況となってしまっている、ということなのでしょう。と言っても、それは「特殊」な事態なのではなく、映画チラシの坂本龍一の「世界中に起きているストーリー。人類史に普遍的なストーリー。」という言葉通りな事態だ、ということでしょう。
    英国シェフィールドの漁師の言葉も印象的でした(まぁ、映画を観てください)。

  • Comment : 5
    ひな
    ひなさん
     2006/10/13 22:26
    私は国分寺で見ましたよ。「耳を傾ける」ことに徹するスタイルから生み出される静かなメッセージに、従来の闘争型の反対運動にはないじわりとした強さを感じました。鎌仲監督のトークもあったのですが、とても知的でチャーミングな女性でした。
    それから、数日前八場ダムに関する集まりがあって、そこでも反対派・賛成派を取り混ぜた地元の人たちの声を集めたフィルムを見たのですが、始めは住民のほとんどが反対していたのが、「賛成しなくては生活に関わる」状況に追い詰められ、コミュニティが分断していくという構図は六ヶ所村と全く同じでした。
    ここでは農業ではなく、川原湯という800年以上も続く温泉が産業です。国や都は住民がダム建設に賛同し補償金を受け取って代替地、あるいは別のまちに移りすまなくては「これから生活ができない」という状況に追い込んでいく。そのやり方は卑劣ですが、とても巧みです。こういうことはまさに世界中で起きてきた、そして起きていることなのでしょうね。

    奇しくも六ヶ所村と八場の住民が語った言葉の中に全く同じせりふがありました。それは「もっと早くに東京の人が、こうやって関心を持って反対をしてくれたら、我々もこんなふうにバラバラにならなかったのに」という言葉でした。
    水も電気も大消費地は東京です。「一人ひとりが節約していこう」という発想は大事ですが、国や都が原発や新たなダム建設をやめるようになるためにはあまりにも弱々しい響きであることは否めません。(実際には水も電気も不足していないにしても)
    「我々はもう充分です。私たちのためにあなたの村が水に沈んだり、命に関わるような危険物を抱え込まなくても、私たちはだいじょうぶですよ」という声を彼らは求めていたのかな、と思いました。
    東京⇒地方という構造が、自然やコミュニティにまでもたらしている影響をもっと自分の問題として、悩んだり迷ったりしながら考え意思表示していくこと、それは節水や節電以上に大事なのかもしれません。

    いばりんぼうのどっかの知事が「東京から日本を変える」とか言うのを、なんて尊大な思いあがった物言いだろうと思っていたけど、あのオッサンが求める方向と全く逆の意味で、「東京から」というのはあるのかな、なんて思いました。

  • Comment : 6
    umasica :桜里
     2006/10/13 22:50
    う〜ん、とにかくこの日本の人口の十分の一、十人に一人が首都圏に住んでいるわけですからね。異常な構図ですよね。

    ところで、私の地元でもある国分寺での上映会に気付いたのが上映一週間後で、残念なことをしたと思っていたのですが、こうして広島まわりで東中野まで足を延ばし、ここで日記に書いたお陰で、あらためて皆さんと議論が出来たわけですから、それはそれでよかったなぁ、なんて思いました。

    確かに十人に一人が東京に住んでいるような状況は、「東京から」という言い方に現実味を与えるものでもありますね。

このブログにコメントをつけるには、ログインする必要があります。
マイページをお持ちでないひとは「マイページを作成する」ボタンを押してマイページを作成してください。
不適切なブログを見つけたら、こちらからご報告ください!

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


http://www.freeml.com/feed.php?u_id=316274&f_code=1



Copyright(C)2017 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.