昭和二十年八月十五日 帝国ツイニ敵ニ屈ス
十五日(水) 炎天
○帝国ツイニ敵ニ屈ス。
山田風太郎 『戦中派不戦日記』
この日、若き山田風太郎は、日記にこの一行だけを書いた。
八月十五日(水) 晴 暑 四、〇〇 八、〇〇
徳川、戸田両君に起される。近衛兵の動きが怪しいとの事、すぐ起きて御文庫の各所の鉄扉を厳重にお閉めする。侍従長、大夫、三井さん等も詰められる。御警衛内舎人の武装を解除しろと近衛兵がせまった由。間もなく田中静壱大将が来て総てを取り静めて事は終わる。馬鹿々々しいことだ。久々で二、二六の時の事を思出す。午前十一時二十分枢密院本会議、於附属室。途中正午の御放送を拝聴、涙が出て仕様がない。森近衛師団長は昨夜反乱将校の為に殺され、それを聞いた阿南陸相は責任を感じて自刃した由。なかなか暑い。夕方入浴。夕食は君子がくれた米をたいておいしく食べ、事務官室の畳の上にほろ蚊帳を吊って寝る。昨夜五十分しか寝ないので七時半頃には入床。
当直
入江相政 『入江相政日記』
近衛師団司令部に、参謀本部の畑中健二少佐、椎崎二郎少佐等が訪れ、森赳師団長にクーデター断行を要請したが、森師団長は「近衛師団は私兵ではない」と答え、応じなかった。師団長は、現場に居合わせた西部軍の白石参謀と共にクーデター派の将校に殺害される。クーデター派に同調する近衛師団参謀古賀秀正少佐により、近衛連隊の出動命令が発せられた。
玉音放送の録音を終えて皇居から去ろうとしていた下村情報局総裁や日本放送協会役員は、近衛兵に連行・監禁され、また木戸内大臣、石渡宮相らも別の地下室に監禁された。
「玉音放送」の録音盤奪取が目的だったようだが、夜明けと共に、司令官田中静壱大将指揮下の東部軍にクーデターの試みは鎮圧された。
阿南陸相の自決は、入江の推測とは異なり、既に決意されていたものであった。
一死以て大罪を謝し奉る。
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾
神州不滅ヲ確信シツツ
大君の深き惠に
浴みし身は
言い遺すべき
片言もなし
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大将 惟幾
遺書は14日付けである。しかし、決行は15日の明け方となったのであった。
東郷外相の記録によれば、14日の閣議後に、
阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及武装解除に付き聯合国側に申入るる外務省案を見たがあれは洵に感謝に堪へない、ああ云ふ取扱をして貰へるのであったら御前会議でも左程強く言ふ必要もなかったのだと挨拶したから、自分は此二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我方の希望として申入るることは度々説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろお世話になりましたと丁寧に御礼を云ふので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、兎に角総て終了してよかったと笑って別れた。
というやり取りがあった(『時代の一面』)。
大本営の『機密戦争日誌』の8月15日の条には、
一、 次官閣下以下ニ報告
二、 十一時二十分、椎崎、畑中両君、宮城前(二重橋ト坂下門トノ中間芝生)ニテ自決。
午后死体ノ引取リニ行ク。
三、 大臣、椎崎、畑中三神ノ茶毘、通夜。
コレヲ以テ愛スル我ガ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆ス。
とのみ書かれている。
荷風氏は十一時二十六分にて岡山へ帰る。余は駅まで見送りに行き帰宅したるところ十二時天皇陛下御放送あらせらるとの噂をきき、ラジオをきくために向う側の家に走り行く。十二時少し前までありたる空襲の情報止み、時報の後に陛下の玉音をきき奉る。然しラジオ不明瞭にてお言葉を聞き取れず、ついで鈴木首相の奉答ありたるもこれも聞き取れず、ただ米英より無条件降伏の提議ありたることのみはほぼ聞き取り得。予は帰宅し、二階にて荷風氏の『ひとりごと』の原稿を読みいたるに家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受諾したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉えるものらし、警察の人々の話なりと云う。皆半信半疑なりしが三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり。
谷崎潤一郎 『疎開日記』
午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み休み三門の寓舎にかえる。S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う。恰もよし日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。
永井荷風 『断腸亭日常』


