フィンランドの歴史、あるいは軍事力による防衛 (2)

1941年6月25日、ソ連空軍の爆撃機は、フィンランドの首都ヘルシンキを始めとする都市への無差別爆撃を開始した。


「ソ連軍の爆撃により、今やフィンランドはソ連と戦争状態に入った」と、大統領リュティはその夜のラジオで、国民に向け演説した。


1939年11月30日のソ連軍の侵攻により始まり、1940年3月12日の平和条約調印で終わった「冬戦争」に続き、再びフィンランドは戦争の渦中に置かれることになったのである。この新たな戦争は、フィンランドでは「継続戦争」と呼ばれることになるが、この間に、フィンランドを取り巻く国際情勢は一変していた。



「冬戦争」時には、ドイツとソ連は共通の利害の下に動いていた。両国は不可侵条約を結び、その取り決めによりポーランドを分割した。

「冬戦争」終結時のヨーロッパ地図は、ポーランドが地図から消え、フィンランドとソ連の国境線に変更があったものの、それ以外の国境線には、まだ変化はなかった。


しかし、1940年4月にはナチスドイツはデンマークとノルウェーに侵攻し、5月にはオランダ、ベルギー、そしてフランスが戦場となっていた。

1940年の夏には、ドイツの課題は英国侵攻となり、ソ連はバルト3国の併合を終了していた。

フィンランドは孤立したのである。軍事援助を受けていたフランスはドイツに降伏し、英国はドーバー海峡の向こうに追い詰められてしまった。


ドイツは、ノルウェー侵攻軍の帰国のためのフィンランド領内通過を求め、ソ連は、平和条約により獲得したフィンランド南部の島とソ連領内との通行権を要求した。フィンランドはどちらの要求も拒否することは出来なかった。

独立は保っていたものの、外国の軍隊が国境内を通過するという事態を認めざるを得なかったのである。



一方で、ドイツの態度は変化しつつあった。1940年夏の終わりには、英国との戦争からソ連との開戦へと、ドイツの軍事的関心は移りつつあったのである。

それまでのドイツにとっては、フィンランドは「同盟国」ソ連の利害の対象であっても、自国の利害関心の対象ではなかった。しかし、対ソ戦計画の文脈から、フィンランドとの友好関係はドイツの関心の対象となり始める。

フィンランドにとっては、ソ連を相手にしながらの孤立状態からの脱出手段として、ドイツとの友好関係の確保は評価されることになる。

フィンランドは、ドイツ軍の領内通過と引き換えに、ドイツからの軍事援助を引き出すことに成功するのである。フィンランドの国境を脅かしているのは、相変わらず、ソ連であるという認識があったということだろう。



ナチスドイツが不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻したのは1941年6月22日のことだ。

その時点でフィンランドは参戦してはいない。直接参戦してはいないが、ドイツ軍の領内通過は既定の事実ではあった。ソ連のフィンランド攻撃の理由とされることになる。


ソ連の攻撃が、都市無差別爆撃によって開始された点には留意しておくべきかも知れない。都市の非武装の一般市民を対象とした無差別爆撃は、この年代の戦争を特徴付けるものだ。ソ連もまた、フィンランド攻撃に際し、無差別爆撃を採用したのである。


地上戦は、7月10日、フィンランド軍の反撃によって開始された。

ドイツとノルウェー、そしてフィンランド軍が、国境をはさんでソ連軍との戦闘に入った。


ナチスドイツによる対ソ戦争の一翼を担うものではなく、あくまでも「冬戦争」に続くソ連の攻撃への防衛戦争というのが、国家としてのフィンランドの立場である。「継続戦争」という名称に、フィンランドとしての戦争の位置付けが反映されている(「冬戦争」の続きなのであって、独ソ戦への便乗戦争ではないという)。


フィンランドは、ドイツの求めるレニングラード攻撃を拒否し、「冬戦争」以前の国境線の回復を第一の目標とした。国境線回復後も、ソ連領内への南下作戦を拒否し、東部国境の拡大を目指すが、皮肉にも地勢という自然条件に阻まれ、冬の到来と共に戦線は膠着状態となる。

ソ連軍の作戦行動自体も、より南方でのドイツとの戦いが中心となり、1944年6月までは、膠着状態のまま過ぎることになる。



その間、フィンランドの政治・軍事指導者は、ソ連との休戦を決意していた。

既に1941年12月の時点で、課題は、戦争の終結策となっていたのである。

1941年12月とは、ドイツ軍がモスクワを目前にして敗退し、大日本帝國が対米英戦争に入った時である。戦線の「膠着」は、フィンランドの兵力温存策という現実主義の結果でもあった(ドイツからの共同作戦の要請は拒否し続けることになる)。



1944年6月9日、ソ連軍は大兵力を持ってのフィンランドに対する攻撃を再開し、フィンランドは守勢に立たされることになる。

ドイツへの軍事援助が要請される。しかし、ソ連との講和への動きを知っているドイツは、援助要請に条件を付ける。ソ連との単独講和の拒否の保証をフィンランドに求めたのである。6月26日、大統領リュティは(個人として)書類にサインする。

一方でソ連も、フィンランドとの戦争よりもドイツとの戦争への決着を重視せざるを得ず、軍を南方に再移動し、外交交渉によるフィンランドとの戦争の決着を求めるようになり、7月26日にはソ連からの回答が寄せられる。

7月27日、大統領リュティは辞任し、8月5日にフィンランド軍総司令官であったマンネルへイムが大統領に就任する。そしてマンネルへイムは、単独講和をめぐるリュティとドイツの書状を議会の承認のないものとして否定するのである。

フィンランドの政治家と軍人のリアリズムには驚くほかない。

1944年9月2日、フィンランドはドイツと断交し、9月19日、ソ連との休戦条約が調印された。



1944年9月3日、新たな戦争が始まっていた。「ラップランド戦争」と呼ばれる戦争は、フィンランド軍とドイツ軍との間で闘われることになる。

初期には、いわば馴れ合いで、退却するドイツ軍をフィンランド軍が後から追うだけのものだったのだが、ソ連の要求により、本格的戦闘も行われるようになった。

最後のドイツ軍が国境を越えるのは、1945年4月25日のことになる。




フィンランドは、1939年から1940年にかけて、ソ連による侵略と単独で戦った。1941年から1944年にかけては、ドイツ軍と共にソ連軍と戦った。1944年から1945年にかけては、ドイツ軍と戦うことになった。

1930年代から1940年代へと続く戦争の時代での、フィンランドの経験はこのようなものだった。戦争に勝利することはなかったが、負けることもなかった。

強大な軍事力をもって小国の独立を脅かす国家が存在していた時代。フィンランドは独立の維持に成功したのである。


その成功の要因としては様々なファクターを考えることが出来る。


軍事大国と戦いうる正規軍の保持、というのは一面である。ポーランドの軍隊や、フランスの軍隊と比較した時に、フィンランドの軍事力は大きなものではなかった。実際、戦闘においてのフィンランドの主力兵器の中での、敵であるソ連軍からの捕獲兵器の比率の高さを指摘出来るだろう。各国からの寄せ集めの兵器に加え、敵軍の兵器を主力兵器として戦った正規軍であったという点を見落としてはならないと思う。

自然条件は常に有利に働いた。地勢と気候は、近代的装備の正規軍の戦場としてはよい条件とは言えない。ヴェトナムのジャングルで苦しんだ米軍、アフガニスタンの山岳地帯で苦戦したソ連軍と同様の立場に、フィンランドへの侵略者は立たされることになる。

そして、政治指導者と軍事指導者のリアリズムである。大日本帝國には存在しなかったし、現在の日本に存在しているかどうかも疑わしいものだ。戦後フィンランドの軌跡を追うことにより、政治指導者と軍事指導者のリアリズムの質の違い(その日本との違い)を痛感することになるだろう。


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