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フィンランドの歴史 あるいは軍事力による防衛 (8)

2008/03/09 14:43

1952年、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了した。1952年は、ヘルシンキ・オリンピック開催年でもある。

ヨーロッパ諸国が、マーシャル・プランによる復興を戦後のスタートと出来たのに対し、冷戦へ向かう国際関係の下で、フィンランドはソ連との関係を重視せざるを得ず、マーシャル・プランへの参加は見送られた。つまり、マーシャル・プランによる、米国の資金に基づいたヨーロッパの戦後経済復興の枠外で、フィンランドはソ連への賠償支払いを完了させ、オリンピックを成功させることが出来たのである。

1952年は、「敗戦国」としてスタートせざるを得なかったフィンランドの「戦後」にも一区切りがついた年、と言えるかもしれない。



1950年代のフィンランドは、オリンピック開催に続き、1955年に国連と北欧協議会への加盟を果たし、国際社会への復帰に成功した。


1955年には、ソ連との関係にも大きな変化があった。

ソ連に提供させられていた、ヘルシンキ郊外ポルッカラのソ連軍基地が、フィンランドの中立政策へのソ連高官の賛辞の下に返還された。外国の軍事基地が国内に存在する状態が解消されたことになる。フィンランドの「独立」が実のあるものとなっていくための大きな一歩であった。

1955年は、西独が、米国を中心とした軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)へ加入した年でもあった。ソ連は、NATOへの対抗策として、東欧諸国による軍事同盟である、ワルシャワ条約機構を設立する。

フィンランドは、その中立政策により、NATOへの参加はしていなかったが、ワルシャワ条約機構へも参加することなく、冷戦期を生き抜くことになる。両軍事同盟への不参加は、中立政策の帰結であると同時に、国際社会における中立国家としてのフィンランドの認知の基盤ともなるものであっただろう。


ポルッカラ基地の返還について言えば、フィンランド国内からのソ連軍の撤退であると同時に、ソ連軍がそれまで果たして来たフィンランド湾の防衛義務をフィンランド軍が求められることを意味した。結果として、沿岸防衛用の艦艇の充実が図られることになるなど、フィンランド軍の軍事力の再構築が、ソ連の要求の下に具体化していくことになる。


1950年代前半の、対空レーダー、英国製バンパイア・ジェット戦闘機の導入(6機)に続き、新たな国産の対戦車火器の採用や、英国製ナット・ジェット戦闘機(12機)が空軍力として加わるのがこの時期である。

ワルシャワ条約機構諸国におけるソ連に依存した軍事力整備と異なる、英国製ジェット戦闘機の採用もまた、中立政策の反映として理解出来るだろう。もちろん、ソ連の容認獲得を抜きに、英国製戦闘機採用は考えられないことから、ここにもフィンランド外交の成功を推測出来る。


フィンランド経由でのソ連攻撃の撃退義務に加え、フィンランド湾の防衛というソ連の要求に沿う形での軍事力の充実への流れの一方で、国連加盟後のフィンランドは、国連の平和維持活動(PKO)への積極的参加を開始する。

1956年の「スエズ危機」に伴う、国連緊急軍(UNEF)への参加(UNEF自体が国連による平和維持活動の最初の試みでもあった))以来、現在に至るまで、フィンランドは国連の平和維持活動の重要なメンバーであり続けている。

国連の平和維持活動への積極的参加の継続は、フィンランドの中立政策の具体化した姿として、国際社会におけるフィンランドの信頼性の向上に結びつくものとなっている。

非攻撃的、あるいは非侵略的な軍事力というあり方を、ここに見出すことが出来るように思う。

日本人の想像力が及んでいない軍事力のあり方ではないだろうか。

軍事力が支配している現実世界で、軍事力の行使による紛争の抑止のために、対抗しうる軍事力の存在が依然として有効に働き得るという認識は誤りではないだろう。

もちろん、その認識は、非軍事的介入の意義を否定するものではない。

そして非軍事的介入もまた、フィンランドが実際に試み続けて来たことでもある。

日本は、日本人は、その間、何を議論し続けていたのだろうか?



さて、フィンランドは、パーシキヴィ大統領の時代からケッコネン大統領の時代を迎える。

パーシキヴィ・ケッコネン路線と、後に呼ばれることになるフィンランド外交の基本は、戦争の経験を反映した徹底した対ソ友好政策であった。ソ連が現実的に友好的な隣人であるかどうかは問題ではない。フィンランド自身が、ソ連にとっての友好的な隣人として振舞い続けることの重要性を認識した結果の政策である。

パーシキヴィ自身は反共主義者であったし、ケッコネンも「冬戦争」後のモスクワ平和条約締結に反対し、対ソ戦争としての「継続戦争」の支持者でもあった。

パーシキヴィは、1944年10月にマンネルへイムの下で首相となり、1946年3月には大統領に就任したのだが、その現実主義はソ連との友好を基調とした中立主義を選択する。

ケッコネンが、当初の対ソ戦争の支持者から、対ソ和解の推進者となるのは1943年のことであったという。1956年の大統領就任後も、その姿勢に変化は無かった。

ソ連という軍事大国を、長い国境線を共有する隣国として持たざるを得ない小国の、それ以外にはあり得ない選択ではある。しかし、その際に課題とされているのは、あくまでも国家としての独立の維持であったし、その課題は達成されたと、現在の視点から判断出来るだろう。


1957年には6人の閣僚で構成される国防委員会が設置され、国防計画の作成と助言に携わるようになる。1958年には、市民防衛法の制定、経済防衛準備の開始、防衛調整計画委員会の設置が決定され、1961年には国民に対する防衛計画が開始されることになった。


この時期のフィンランドにおける軍事力整備の一環としての、空軍における練習機の大量購入は、フィンランドにおける軍事的リアリズムを理解する上で見落とすべきではないだろう。

既にパリ条約で、実戦機60機という空軍の航空機保有制限が定められていた。それに対し、フィンランド空軍はこの時期、練習機の大量購入を行うのである。スウェーデンからサーブ・サファイア初等練習機30機に加え、フランスからマジステール80機という練習機の購入を果たす。フィンランド空軍の保有するジェット戦闘機が、バンパイア6機ナット12機という時点、実戦ジェット戦闘機わずか18機という時点での話だ。

対ソ戦争の経験は、パイロットの消耗という実戦の現実と、その後の補充の必要性を強く認識させるものとなった。小規模な空軍であっても(であるからこそ?)、潜在的なパイロット養成が必要とされるということであろう。

同時に、戦時の空軍力の拡大の必要を見越した、余裕ある空軍基地施設の整備と、戦時に十分に対応しうる装備の用意が進められた。

その他にも、空軍学校の設立に加え、長距離レーダーシステムが英国から導入されている。

しかし、実戦機の不足もまた依然として事実であった。


陸軍戦力としては、野砲、歩兵用携行火器の開発、英国からの戦車購入に加え、ソ連からも戦車、対空戦車等の購入が進められた。

その結果として、常備軍の装備は国際的水準のものとなったが、予備役50万人分の装備は旧式なままにとどまった。


そして1961年に至り、空軍力の充実、十分な実戦機の確保に成功するが、これもまたソ連の意向による形を取るものであった。

そのいきさつもまた、実に興味深いものである。


Binder: 現代史のトラウマ(日記数:665/全体に公開)
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