東京都立松沢病院内にある「日本精神医学資料館」をめぐるお話。
昨夜の続きである。
『怪』0026号(カドカワムック)の「松沢病院に残された幻想の痕跡に会う」という記事の内容紹介だ。
昨日の荒俣宏氏のセリフからもう一度、その続きまで。
荒(荒俣宏) ところで、本日は資料館見学ですが、事前に部長先生の許可をいただきました。中に入ってよろしいでしょうか?
春(春日武彦) どうぞ、この資料館の正式名称は、「日本精神医学資料館」です。例の、皇居のお濠を渡ろうと計画した人が作ったという奇怪な小船が、入り口に展示してあります。
荒 え、これなんですか! こんな手製の船で皇居に何しに行こうとしたんですか?
春 昔は電波も音も、精神に影響する波動はすべて皇居からやってくる、と。
荒 昔、天から電話がかかってくるとか、電線から声がするとかいう話がありましたが、皇居からのも、あったんですか。
春 今は皇居のマジカルな力もすっかり価値が下落して、そういう話を聞きません。最近だと、怪電波は都庁からきたり、NHKからきたり。
精神障害の世界における、皇居の地盤沈下、つまりマジカルなパワーの源泉としての天皇の認知度の低下ということだろうか?
いわゆる「ネトウヨ」諸氏の意識を見ても(詳しいわけではないが)、わが「国体」への関心度の低下が窺われるという印象を持っている。右翼を称する人間から、「国体意識」が失われつつあるのだから、精神障害というある意味で感度の高い人々の関心が皇居から都庁やNHKへと移行しているというのもうなずける話であろう。
日本文化史的観点からも興味深い事実だと思う。
さて、ここからがホントの昨夜の続きである。
荒 それからもうひとつ、せっかくお目にかかったので伺いたいのですが、こういうアーティスティックな作業、これは昔、十七世紀くらいに精神病院を見物したホガースという画家が、病人たちの変な行動に気が付いて、皆壁に色んな画を描いたりして、もしかしたらこの人たちはアーティストなのかもしれないというところからはじまって、とうとうローザンヌで狂人アートの研究もはじまりますよね。このアーティスティックな能力、機能と、脳との関連に関して最近はサヴァン症候群が話題になっています。精神の障害がある人の中に、絵とか音楽とか数学とかに超人的な能力を発揮する例がある、という現象ですね。われわれ、妄想系の作家にとっても関心のある問題です。これ、どうお考えですか。
春 わたし個人としては、ロマンと過大評価とが混同されている印象がありますけどね。統合失調症などでみてみますと、技術的な機能は精神疾患が発生してもそんなに落ちないといわれています。ただし、絵の場合、構図に緊張感が失われて、描かれている要素がすべてバラバラになってしまう。本人たちも気がついてまずいと思うわけです。そうすると不安に駆られて空白をびっしりと埋めてゆくんです。でも、そんなことをすると画面は壁紙みたいにアクセントを失ってしまい、それゆえに偏執的な独特のトーンが生まれてくる。昔、わたしが知っていた絵描きの患者さんは、発病以来次第に構図がゆるくなってきて、苦し紛れに、画面全体を黒く塗りつぶして、その上に白く線を浮き出させる銅版画のメゾチント方式で描くようになった。すると全体の画面が闇に沈みますから、余白がなく、緊張感がでる。そういう工夫で、なんとか構図が散漫になるのを防いでいました。
京(京極夏彦) 作家でいうと、プロットが作れない、オチの付け方が分からない、の状態ですか。
春 そう、構図やオチを決められないというのは、ある意味で悲惨な話ですよ。
荒 人間やはり、二、三歩先の見当がつかないと先に進めませんからね。
春 そうですね。構図が散漫になってしまうことでおきる不安。つまり、それがいままでずっとお話してきた精神的な不安定状態の真相でもあるのです。
京 良いのか悪いのか判断できないから、どんどん隙間を埋めていってしまう。
荒 でも、われわれが助かるのは、物理的に締め切りが来て、作品を自動的に終了させてくれることですよ。天の救いの強制終了です。人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから。
実際に、「アウトサイダーアート(アール・ブリュット)」という呼び方で、精神障害者による作品がカテゴライズされ、関心を持たれつつある。私自身、かつて世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴィジョン」展を観て以来、興味を持ち続けている分野だ。
まぁ、それはそれとして、ここでは、「プロット」と「オチ」という京極氏の表現に惹かれてしまった。
絵画作品や立体作品を見ていて、どの時点で作家が完成と判断するのか? というのは、よく思うことなのである。
文章にも、同様な側面があるだろう。改稿を繰り返してもフィニッシュに至らない状況。しかし、そんな時には、何を自分が言いたいのかが既に見失われていたりもするものだ。
一方で、書き続けることによって、まったく別の眺望が開けるようなこともある。わかっていることを書きました、という状態から、書き続けたことで新たにわかった(それも思いもよらぬ展開として)、という状況への転換。
絵画作品などでも、下描きの精緻化としてではない描き方があるように思える。完成形が、当初から明確にイメージされているとは限らないのである。
…なんてことを考えながら、荒俣氏の「人生の強制終了である死も、ある意味では救いかもしれない。これ以上悩んだり、恥かいたりしなくて済むから」という発言にも心から同意している私なのであった。
あらためて数えてみたら、鼎談部分でも14ページという分量である。これだけでも読むに値する、と言うか、(その前に)買うに値する一冊だと思った(と購入→ますます部屋が狭くなる、を正当化している)。















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読破したものは必ず精神異常者になるという、かの作品です。
舞台は、九州帝国大学の医学部精神学科。正木博士の言葉が印象的です。
吾輩が幽霊だとか、吾輩が死んでから一箇月目だとかいうような飛んでもない気もちになってくれちゃ困るよ。ハッハッハッ、いいかい。これから先の話を聞いてそんな錯覚や妄想に陥ると、もう永久に取り返しが付かなくなるかも知れないからね。いいかい……ほんとに大丈夫かい。……ウンよしよし。それじゃ安心して話を進めるが……
さる方も、『ドグラ・マグラ』を読めば精神のバランスを回復されるのではないでしょうか。