「老衰」との距離感(死における理不尽の所在)
寝転んでいる「ダミニスト」…が最後の「くつろぎ」を迎えて「死」に臨む。
確かにこれは自然体の「ニヒリスト」の一種に違いあるまい。
「死」を超越する事で「死」を克服する者。それが「仏」の有様と云うもの。
…というお言葉。
実際問題として、死を予期し、その回避を続ける望みがないと思われる状況を想定した時に、自分がそこで何を思うのかと考えてみるのだが、
なってみなければわからない
という言葉しか思いつけないのであった。
確実に、回避不能な出来事として、死を想定しているわけだが、しかし一方で、まだ先の話という評価もしてしまっているわけだ。まだ、それほど切実に感じられる問題ではない。
しかし、数年前の事故を思い起こせば、転倒位置が10センチずれていれば、この私も既に「遺骨」となっていたかも知れないのである。死は実に身近なところに隠れている。
まぁ、要するに、生き物である限り、死は回避不能な事態だ。それが明日のことであるか、まだ数十年先のことであるのか? その程度の違いに過ぎない。
…なんてことは常日頃考えているわけだが、しかし、医師から「余命6ヶ月」と宣告された時に、自分が陥る心理状態の予測は、どうも想像力の外である。ジタバタするのだろうか?
まぁ、私の友人の場合、ジタバタした末に、宣告後2年半を生きて過ごした、というのも実話である。「ジタバタ」の力が、彼女を生かしたのだろう。
どうも、私の場合だと、素直に医師の宣告を受け入れ、そのまま半年後に死を迎えるというストーリーになっていたに違いない。
「老衰」による「死」が理想なのだろうか?
どうも、それもよくわからない。「戦死」は歓迎しない。「戦病死」はもっと歓迎しない。戦場での「餓死」と「戦病死」では、どっちがマシだろうか?
「事故死」は仕方がないが、酒酔い運転の犠牲になるのは歓迎しない。見ず知らずの人間に路上で刺される、なんてのも御免蒙りたい。
どっかの誰かの悪意や不注意による死。それは歓迎出来ない、という感情があるようだ。
自分の不注意による死に関しては、黙って受け入れるしかないだろう。「甘受」というヤツだ。
…という感情のあり方が、どうも私の「反戦的」心情を生み出しているらしいことに気付く。
結局、こちらの都合で見ず知らずの誰かの命を奪う。それが戦争遂行上、不可欠な行為なのである。ジョーダンじゃない。
見知っている人間が、普段の私の言動に対し正当な恨みを抱き、殺害を決意する、というのは理解出来る話であり、歓迎はしないが甘受すべき状況に至ることも想像出来る。もちろん、ここには「逆恨み」は含まれない。
それに対し、戦争状態の意味するところは、敵国民からそれぞれ異なる個人という属性を奪い、一様な「敵」としてカテゴライズしてしまうことなのだ。その上で、正当な殺害対象として位置付けるのである。
要するに、私が誰であるのか? それが問われることなく遂行される私の殺害に対する抵抗感なのだろう。
見ず知らずの誰かの都合でもたらされる死。それは理不尽なものなのである。
生き物である以上、生の終着点として死が設定されていることに関しては受け入れることが出来る。生き物であることを望んだことなど一度もない、と考えれば、生そのものが「理不尽」なものとなるが、「生」を所与の条件と考えてしまえば、死そのものは理不尽なものではない、ということだ。
つまるところ、「老衰」は理不尽さの最小形態による死、ということになるのだろう。
…と椅子に座って私は考える、のであった。
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