毎度云うが「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」だ。
「論理」で世界を割り切ろうと試みた場合「原子爆弾」が結果される。
それを、無実無関係な人々の頭上に落とす事が「はっきり見る」事に
なるのかい。「冷たい方程式」って奴だな。そんな結果を回避する為
にこそ「はっきり見る」必要がありそうなもんだが「ウマシカ」式の
論理では「説明」は出来ても「説明しかねる」事は語れないだろう…。
まぁ、何を言っているのか、何を言いたいのかはさて置いて・・・
経験される現実自体が、論理的構造や、論理的根拠をもって、私たちの上に降りかかってくるわけではない。
理不尽であり不条理。それが現実というものだろう。
しかし、私たちに経験されるそれぞれの行為は、それぞれの論理の背景を備えていることも多い。行為の当事者にとっては、自身の行為の多くには理由があると考えられているものだ。やられた方にとっては、理由のわからぬ理不尽な暴力であっても、やった方には理由ある当然の行為であり得るのだ。
行為の理由となるのは、先立つ何らかの行為の結果であろう。あいつに無視されたから、オレは仕返しに殴ってやった、みたいな。
しかし、「あいつ」が本当に「オレ」を無視していたのかどうか? 実はそこからして怪しかったりする。別のことに気をとられていて気付かなかっただけのこと、というのはよくある話だ。
気付かないことと、無視することは、別の事柄である。気付かれなかったことと、無視されたことも、別の事柄である。
視点が異なれば解釈も異なるし、文脈が異なれば行為としては同一であっても意味は異なるものとなる。気付かないこと or 無視すること あるいは、気付かれないこと or 無視されたこと。「or」を挟んで対立しているのは「文脈の違い」であり、「あるいは」を挟んで対立しているいるのは「視点の違い」だ。
「事実」とは「視点」に依存し、「文脈」に依存して経験されるものなのである。「被害」と「加害」の関係を考えてみれば理解しやすいだろうか?
「目に見えたもの…これすなはち真実ではないのです」になぞらえれば、感じられたこと…これすなわち事実ではないのです、と言うことが出来るだろうか?
しかし、経験された出来事を、広範囲の他者との共有可能性に配慮しながら記述することは出来る(少なくともそのための努力は)。
自身の視点を相対化し、その都度の自身の文脈に自覚的になることが出来れば、ある程度は実現可能なはずだ。「歴史学」の根底を支えるのはそのような認識だろう。
もちろん、一方で、歴史の記述は、自身の視点及び文脈の絶対化として現実化されることも多い。自己礼賛的な歴史記述、あるいは自虐的な(と言われる)歴史記述とはそのようなものだ(「自虐的」として批判される歴史記述の多くは、単に自省的であるに過ぎないと思うが)。
その際、特定の視点、特定の文脈の絶対化は、同時に特定の論理の(排他的な)選択でもある。ゆえに、そこでの論理展開の整合性や一貫性を問われることになるのだ。
近代史において、「侵略的」とも評される大日本帝國の膨張主義的政策を、それに先立つ西欧列強による植民地獲得競争の模倣行為として正当化することは、確かに論理として可能である。しかし、その正当化は、大日本帝國による大東亜戦争の遂行を、「アジア解放の闘い」として正当化することを論理的に阻むものとなる。
私が歴史を語る上での論理的整合性・論理的一貫性を問題にするのは、そのような局面においてなのである。
歴史自体が論理的一貫性や整合性をもって展開するものだと主張するようなことは、私にはまったく無縁な態度である。
人は、自身の視点、自身の文脈から自由になることは出来ない。しかし、そのことを意識することにより、他者との間に起こる悲劇、自身が自らの身の上に引き起こす悲劇の機会を抑制する可能性は、少しだけ増えるだろう。
たいした希望にはつながらないが、完全な絶望からは少しだけ救われる考え方だと思っている。























































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