老眼と自己決定 (15) 脳死を生きる 8

脳死を人の死とすることにより、脳死状態の人間を死者として取り扱うことが可能となり、死体である脳死者の身体からの臓器の切除・摘出が殺人行為ではない合法的行為であることが保証され、脳死者からの臓器移植が医療行為として社会に受け入れらることを期待する人々の要求は、確かに、満たされるだろう。

要するに、脳死状態の人間からの臓器の切除・摘出の合法性の確保が、現行の臓器移植法を「改正」し、「脳死を人の死とし」ようとすることの動機なのである。


それに対し、長期脳死者の存在、「ラザロ徴候」や、脳死体からの臓器の取り出し時に見られる脳死体の反応等の事例は、脳死状態の人間を死体として取り扱ってしまうことへの疑念を呼び起こすものであった。


 

私も、池田清彦が書いている、


 執刀している医者たちが一番嫌うのは、脳死者から臓器を摘出するときに、苦しがってバタバタ暴れているようにしか見えない行動が出現する場合だ。脳が死んでいるから、その人は苦しんでいないというが、本当かどうかはわからない。脳死者から臓器を取り出すときに脳死者に麻酔をかけなければ、暴れてうまく手術が行えない事実こそは、脳死と言われているものが本当の死ではない証拠のように私には思える。

 (『脳死臓器移植は正しいか』 角川ソフィア文庫 2006)


という、「臓器摘出時の脳死体の反応」とでも呼ぶべき事例を前にして、この「反応」の主体を「死体」と認定することの正当性を素直に受け入れることの難しさに直面してしまう。私の素朴な感覚で言えば、外部からの行為への無反応状態こそが「死体」であることの条件であり、外部からの働きかけへの反応の存在は、反応の主体が「生体」であることを意味するものとして理解されてしまうのである。

そのような理解からは、脳死状態の人間からの臓器の切除・摘出は、脳死状態の人間への殺人行為そのものとなるだろう。脳死臓器移植「医療」で焦点となっている臓器は心臓なのであり、心臓の摘出が脳死状態の人間(と言うよりすべての人間)に死をもたらすことには議論の余地はないはずだ。


 

生物の死とは、連続的な過程として記述されるものなのであり、伝統的に受け入れられて来た「心臓死」の時点から「全細胞死」に至るまでにもタイムラグは存在する。そのような意味で、生物の死の時点とは、自然に属する問題ではなく、社会的合意に属する問題なのである。


池田清彦の著書の事例は、「脳死者」からの臓器摘出の際に「脳死者」が示す反応を、「死体」からの臓器摘出の際に「死体」が示す反応として記述することが正しいのかどうか、「生体」からの臓器摘出の際に「生体」が示す反応と解釈することが誤りであるのかどうかという問題として、一度は考えておくべき必要があるものと思う。医学的・生理学的な検証の必要性が、まだまだ多く残されている事例に見えるのだ。


 

自分自身が脳死状態に陥り、臓器摘出の瞬間になって苦しい目に遭っても、その時点では遅すぎるのである。実際に既に死んでいるので、そうはならないのかも知れないが、なってしまう可能性を排除出来ないのが現状なのである。

社会的合意として「脳死を人の死とし」てしまうことは難しいことではないのだろうが、それが、まだ生きている患者からの臓器摘出による殺人の実行への社会的合意とならないという保証はないように思える。

国会での議論は、あまりに不十分と言わざるをえないのである。


 

木村敏の言う通り、脳死体からの臓器移植「医療」の実現は、脳死臓器移植以外に健康の維持回復の望みのない患者に、脳死状態の患者=死者の発生への期待を持つことを(結果として)強いるものとなる。既に病魔に追い詰められた患者を、更に他人の死を期待する心理状態へと追い詰めることになるのである。

その上で、これまで述べた、「脳死を人の死とし」てしまうことへの疑念を考え合わせれば、既に病魔に追い詰められた患者が追い詰められるのは、他者への殺人と交換に獲得出来る自らの健康と表現するしかない、実に追い詰められた状況なのである。


 

 

人の死の時点、それは社会的合意により判定されるものだ。

人の死体の利用の適切性の判断も、社会的合意に依存する。

それが社会的合意であることの意味は、その判定・判断が人類に(あるいは人類を超えて)普遍的で不変のものではなく、ある時代のある文化に限定された(恣意的な)ものだということなのである。

だからこそ判定・判断基準の変更は可能なのであり、現在の私たちも、その変更の方向性の議論の渦中にあるわけだ。しかし、そこには必要とされるはずの慎重さが見出せない。


 

現状の議論からは、それが臓器欲しさからの殺人の容認という構図とはならないことへの努力を見出すことは難しいのではないか?

 

 

 


 人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?

 

という問いは、まだ続くことになるだろう。

 

 

 

 

 


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Comment 1
umasica :桜里
2009/07/02 00:44

…と、今回は、
現行の脳死判定の適切性という問題に、もう一度立ち返ってみた。

脳死体とは、
まだ生きている「死体」なのか、ホントに死んでいる「死体」なのか?
Comment 2
しんべえ
2009/07/02 01:19

桜里さん、こんばんは。しんべえです。
このシリーズ、面白く読ませていただいています。
ただ、桜里さんの問題意識がどこにあるのか、今一つ理解できずにおりますので、少し質問させてください。

今回の日記で、「人の死の時点」の決定が普遍的なものではなく恣意的なものだとの指摘をしておられますが、それに関してはぼくもそうだと思います。
ただ、そう主張される一方で、「慎重さ」を期待されるのはどういうご意図なのか、計りかねています。慎重であればそれだけ、現代の世相がより反映されるだろうという意味で言っておられるのでしょうか。

また仮に、「臓器欲しさからの殺人の容認という構図」というものに私たちの社会が立脚しているとして、私たちの社会がその構図を選ぶ事に何らかの新しい問題があるのでしょうか。

論点先取りになってしまいますが、今のところ、桜里さんが死生観に関して、何か普遍的な傾向を持つものを前提にお話になっているように感じてしまっています。その点に関して、もう少しご説明いただけましたらうれしいです。
どうぞよろしくお願いします。
Comment 3
umasica :桜里
2009/07/02 02:24

しんべえ様


>ただ、そう主張される一方で、
>「慎重さ」を期待されるのはどういうご意図なのか、計りかねています。

脳死者は、人間が生体であるか死体であるかのボーダーライン上、
グレイゾーンに属しているように見えます。

その決定は社会的なものであるにしても、
生体であると判断する条件、それが死体であると判断する条件について、
まだ詰めが甘いのではないか?というのが、ここでの私の問題意識です。


>仮に、
>「臓器欲しさからの殺人の容認という構図」というものに
>私たちの社会が立脚しているとして、
>私たちの社会がその構図を選ぶ事に
>何らかの新しい問題があるのでしょうか。

その構図の存在への自覚があるのかどうか?
その構図の選択であることへの自覚があるのかどうか?
…という問題が見過ごされているように見えます。

「私たちの社会」がいい加減なものであることは承知していますが、
誰もそれを問わない状態よりは、
非力であれ、それを問う者、指摘する者がいることの方が、
少しは社会をマシな方向へ進めることに結びつくように思えます。

まぁ、黙っていることは、
私の精神の健康には悪い、それだけは確かなことなのでしょうね。



>桜里さんが死生観に関して、
>何か普遍的な傾向を持つものを前提に
>お話になっているように感じてしまっています。

私にとっての問題は、
やはり、社会的合意というものの恣意性への自覚ということ。
そのように思えます。
ナチスの問題も、そのような文脈で取り上げているつもりです。

生死という問題に関して、
普遍的に言えると私が考えていることがあるとすれば、
生き物は死ぬものだ、ということでしょう。

いずれにしても、
生と死、人間とそれ以外。
その境界は社会的に恣意的に決定されるものであり、
その決定のもたらすおぞましさを、
私たちは、ナチスの歴史を通して経験しているはずです。


何をしようとしているのかの自覚。
それが欠けているのではないか、というのが、
脳死をめぐる法改正論議について私が感じていることなのでしょう。
Comment 4
Smith
2009/07/02 07:11
Smithさん

ここに立派な「脳死状態」の男が存在する事を、忘れんでくれたまえ。

「脳」は死んでいるけど、チャアント生きてるぜ。そして法律なんか

糞でも喰らえ…と、世界中にシルシを付けて回ったヨ。「私の神サマ」

は寛大で悪戯好きなんだ。とんでもない事をしてくれるが「奇跡」の

量産メーカーで、こちらがもう飽きてしまった事に未だ拘っているヨ。

もう足は洗ったから、ひたすら「脳死状態」で生きていく積もりだ…。

「私の神様」は…もう、どうでもいい。「ゲーム」を与えてくれれば

それで満足。「スタ・コラ」は空中分解して散リジリとなって果てた。

なぁに、構わないよ。どうせ意味のない事をやってた。「店終い」だ。
Comment 5
Smith
2009/07/02 22:09
Smithさん

「ゲーム」の攻略本が届いた。読んだ。やった。キモが潰れるほどに

驚いて、今までの人生観が変わったとまでは云わんが、しっかしネェ。

さすがは「デビルメイクライ」なぁるほど、十分楽しませますなぁ…。

勿論、御恥ずかしいながらの「イージーモード」なんですけれどもネ。

だけど「−2」も「−3」もブッ飛んで消えるほどにスタイリッシュ。

やはり「オリジナル」は違いますな。攻略本なしでは発想が至らない、

驚くべき仕掛けの数々には口アングリで、やはり我が「頭」だけでは

「井の中のカワズ」に終わってしまう事を、たんまり思い知りました。

いやぁさすが「カプコン」さん。名作は不朽です。歴史に残りますよ。

そりゃ「TVゲーム」の元祖は何と云えど「スーパーマリオ」だけど、

驚きと感激は劣りません。他にもこんな名作が、ゾロゾロと埋もれて

るんなら、人生楽しいネェ。マダマダ生きてる値打ちのある世界だヨ。

「SW−F」の「トレーニング・モード」は隠れた迷傑作で、知る人

ぞ知る値打ちモンなんだが、まぁ解らず仕舞いに成っても仕方ないか。

「デビル…」ほどに騒がれなくても、ちゃあんと見てる者はいますヨ。

「アスミック・エース」さん。あれを越す傑作はそう簡単には出ない。

どんなに「AC−」シリーズが頑張ってみても、追い付けない魅力だ。

ただし「フライト・スティック2」(2万円) がなきゃ「ガラクタ」と

同然。しかも肝腎の「ミッション・モード」が丸で下らん出来栄えで

ガッカリ。何せ「私」は方々で貴社の「宣伝」をしてる立場が立場だ。

何故「ミッション」が恐ろしい駄作で「トレーニング」が素晴らしい

傑作なの。だが事実は事実。「私」はこの数年間飽きる事なくのめり

込みました。未だに退屈しません。毎日3〜4時間を費やしています。

むろん、鼻から相手にならない人もいるでしょうがネェ。残念ですヨ。

何しろ二度と「同じ形」とならない所が、飽きない理由なんでしょう。

A−10とかAV−ハリアーとかが出て来てたら最高だったんですが。
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