デリダの子供がガタリ。デリダの弟子がドグマ。ドグマの部下がフーコーとバルト。
…というのは、劇団無敵旗揚げ公演、そのタイトルは『清潔』の中での設定。
「劇団無敵」は、「劇団むさび」の役者にして演出家にして劇作家でもあった金城孝裕が、新たに立ち上げた団体だ。その「旗揚げ公演」が高円寺の明石スタジオであり(今日まで)、家族で楽しんで来た。
明石スタジオ、20年ぶり(いやそれ以上?)、という感じだ。若干、閉所恐怖症の気味があるので(あくまでも「若干」だが)、小劇場系の公演に、自分から出かけるということはない。つまり、その時々の友人関係(恋人関係?)が、私を小劇場まで引きずり出すのである。今回は、家族関係に引きずり出された、ということになるだろうか? 娘がカネシロファンなのである(これまでにも何度か書いたと思う)。
芝居自体について詳しいことを書くのはメンドーなので、とりあえずシチュエーションの中で、こちらに響いた言葉を書き残しておきたい。
医学は反自然だ
という意味のセリフ。
つまり「治療」は「反自然的行為」なのである。
デリダは外科医。ガタリは医学部を目指すデリダの息子。ドグマは、デリダの(不肖の)弟子。 …というシチュエーションの中で、その言葉が、何度か吐かれる。
これ、「老眼と自己決定」シリーズ(「現代史のトラウマ」の、だ)のテーマとなりつつある問題だ。輸血も人工呼吸も「反自然的行為」なのだ。もちろん、脳死臓器移植は「反自然的行為」の極みだろう。
もっとも、劇中では、医学的な文脈が、天文学的な文脈とシンクロするものとしても描かれている。「反自然」であるはずの「医学」の深奥の秘密は、「自然」である天体の運行に支配されているわけである(あくまでも芝居の中での話だが、それが、動脈、静脈、包帯の赤青白と、月蝕状態の月の赤、地球の青、太陽の白のイメージを用いて説明されていたことは書き残しておこう)
振り返ってみれば、医学のモチーフの上に進行するストーリーには、もう一つ「人力飛行」という、これまた「反自然」的モチーフが重ねられていたのだった。飛行もまた、反自然ではあるが、自然の原理(物理的原理)に拠ることにより可能になる技術であろう。
「医学」を究めようという欲望に突き動かされ、患者の利益などまったく考えることのないデリダ以下の集団と、「人力飛行」に賭ける仲間が、医師と患者の関係を通して出会ってしまう。そんなシチュエーションが生み出す、非現実的な進行の背後に現実的な問題意識も垣間見せる舞台、という括り方も乱暴ではあるけど、「武蔵野美術大学競技ダンス部」の「協力」も得ての躍動感あるステージに出会えたわけだから、「閉所恐怖症(ただし若干)」を克服(?)して出かけただけの甲斐はあった、と言うことにウソはない。
…と、ここまで書いたのを読み直して、前回の金城作品である『アケオメスト』(劇団むさび公演)のモチーフも、未知を既知へとすることへの努力というか欲望であったことを思い出した。
「もっと先が見たい・知りたい」という欲望、である。
今回は、その対象が医学であり、もっと完璧に空を飛びたいという欲求であった。妻が設計した人力飛行具の操縦者として、夫は墜落し、結果として命を失う。墜落した夫の搬送先で、その夫の救命に失敗するのが医師ドグマなのであった。
金城作品のこの先を観たいし、知りたいしという欲望に突き動かされ、小劇場の閉所的空間に足を運ぶことになる。
どうもそんな未来が待ち受けていそうである。
相手は「無敵」なんだから、抵抗はムダなんだろう…
最後になったが、デリダを演じていたのはカネシロ本人であった。



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衛藤ヒロユキの『魔方陣グルグル』だった。
『清潔』では、ラカンさんは登場しないでフーコーさん。
(だからどうした、な話ではありますが…)
そう言えば、某MLで成敗した饒舌氏のお好みはドゥルーズさんでありました。
(ますますドーデモイー話でございますが…)