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老眼と自己決定 (25) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理

2009/08/10 12:39

どうも、調べてみると、「輸血」という医療技術が本格的に用いられるようになる時期は、第二次世界大戦と重なるようである。

 

「輸血」による治療の試みは20世紀以前に遡るようだが、「血液型」が発見されるのが1900年、そして血液の「抗凝固剤」が発明されたのが1914年であり、それぞれの発見と技術なしには、「輸血」が医療技術として確立・普及することはあり得なかったわけだ。

そして最初の「血液銀行」設立が1937年(「盧溝橋」の年)となっている。

 

つまり、第二次世界大戦前夜に、技術的な基盤が確立し、第二次世界大戦では、その輸血技術が多くの負傷兵の命を救ったわけである。

 (→ http://www.wanonaka.jp/sub10.htm

 

平和であっても輸血技術は普及したに違いないにしても、戦争が大きく後押しをしたこともまた<事実>ということになりそうである。

 

 

 

もう一つの20世紀になっての医療技術である「人工呼吸器」は、その本格的使用が朝鮮戦争の時期と重なるようだ。
 ↓ ↓


先にも述べたように、脳死は人工呼吸器なしには発生しない。そして、人工呼吸器が発達したのは、 1950年代に入ってから、朝鮮戦争を契機としてなのである。50年代後半に、朝鮮戦争で急激に発達した 人工呼吸器が一般の医療現場にも積極的に導入されるようになったとき、人工呼吸器を使用している重篤な患者の中に、たしかに心臓は動いているが、どう見ても生きている徴候が全く見られない患者が観察されるようになった。そういった症状に対して、'coma depasse'(行きすぎた昏睡、超過昏睡)とか、卑俗には『力強く脈打つ死体』といった表現が用いられるようになった。
 立花隆 『脳死』(中公文庫 1988)


 ↑ ↑
ということなので、「人工呼吸器」に関しても、その技術的発展の後ろには戦争があったということになる。

 
 
 

もともとの「脳死」の問題への関心から、人工呼吸器という20世紀の「高度」と言ってよい医療技術、その後のより高度の医療技術の基礎となったものとしての、そして脳死状態を準備した技術としての、「人工呼吸器」の存在は、私には、しばらく前から気になるものであった。

つまり、「脳死状態」を生み出すのは、実は、その「高度医療技術」なのだから。

 

 
 

  

今回、あるML上での「エホバの証人」をめぐるやり取りを通して、彼らが異端視される要因となる「輸血拒否」の問題を考えることになった。

 

ML上では、ナチス時代のドイツにおけるナチスへのキリスト教徒の態度、という問題が論じられていたのだが、強制収容所収容者の一カテゴリーを形成(紫の標章で、他の収容者から区別された)するに至る「エホバの証人」の存在に関する私の言及が、正統的クリスチャンを任ずるらしい他のメンバーからの大きな反発を招いたのである。彼らの教義は、キリスト教徒のものではない、と言うのである。

私自身は、信仰の外部の人間なので、彼ら「エホバの証人」の信仰をキリスト教内部のものとして評価することの妥当性の判断を、信仰上の問題として論じることは出来ない。そのことを述べた上で、以後は「エホバの証人」については「聖書の文言に基づく信仰を抱く人々」として言及することにした。系譜論的には、「オウム真理教」の教義を仏教教義の一支流として論じることが出来るのと同様に、「エホバの証人」の教義をキリスト教の歴史が生み出したものとして論じることは可能だと考えているが、ここでは「正統派クリスチャン」氏の<情>に配慮したわけである(しかし「正統派クリスチャン」氏の疾走する<情>は、この配慮を理解しなかったのであるが、まぁ、その話はここでは関係ない)。

 

話を戻せば、確かに、「エホバの証人」の信仰が要求する「輸血拒否」というのは異様な感じを受ける行為である。
しかし、一方で「輸血」という医療を考えれば、今でこそ普及してはいるが、上記のように、基本的に20世紀になっての「高度医療」に属するものなのであり、「人工呼吸器」同様に、現代のより高度の医療の基底をなしているわけである。

 
逆に言えば、いわゆる第三世界には、まだまだその恩恵に与ることの出来ぬ人々の存在するタイプの医療、ということになる。
つまり、現在でも地球レベルでは、必ずしも普遍性ある医療技術ではないということになるわけだ(アフガンやイラクの病院の状態を想像すること)。

 
高度医療技術としての「輸血」という観点からは、「輸血拒否」を、インフォームドコンセントの延長としての、患者による医療内容の選択という領域の問題と考えることが出来るように思える。医療内容の選択、つまり患者の自己決定権の行使である。

ここでは「輸血拒否」は、高度医療継続の拒否なのであり、いわゆる「尊厳死」の問題につながるものとして、その一見しての異様な印象とは別に理解することへの可能性が開かれるのではないだろうか。もちろん、あくまでも、彼らの聖書解釈の妥当性という信仰の文脈とは独立して考えることが必要となる。

 

ここで問題があるとすれば、成人なら確かに本人の自己決定の問題となるが、未成年者の場合の取り扱いであろう。
自分の子供への輸血拒否は許容されるのかどうか?ということである。つまり、親が子供への輸血拒否をすることの当否、という問題である。

 
ここで、「脳死」の問題が大きくリンクしてくる。
先般の臓器移植法の「改正」では、脳死状態に陥った15歳未満の子供からの臓器移植が、その親の同意を要件とすることにより、合法性を備えたものとして可能となった。つまり、子供自身の事前の意思確認なしに、親の同意のみで、脳死臓器移植が可能とされたのである。

子供自身による自己決定権の尊重という姿勢は失われてしまったのである。
もちろん、現実には、これまでは、自己決定能力の未完成を理由に、15歳未満の子供からの臓器提供は禁じられていたわけだ。未成熟な責任能力という観点から、15歳未満の子供への意思確認の妥当性自体が否定されていたのである。

今回の「改正」では、子供の自己決定能力の有無が問われることはなくなり、親の同意のみで子供からの脳死臓器提供が可能となってしまった、ということなのである。

 

…ということは、論理的には、「エホバの証人」による自分の子供への輸血拒否は尊重されねばならない、ということになってしまうはずである。

子供の受ける医療内容への最終的決定権が、その子供の親にあるというのが、今回の臓器移植法改正の眼目なのだから。

 

 

まぁ、私自身には、成年者本人はともかく、親の意思による子供への輸血拒否を支持することは出来ないし、そもそも今回の臓器移植法「改正」も支持出来ないわけであるが…

 

 
 

 
そう言えば、イラク戦争では、ヘルメットの改良により防護能力が高まった結果、逆に、これまでに見られなかったタイプの脳損傷に見舞われた兵士が多く見られるということである。そして、その対処・治療法の確立が問題になり始めているわけだ。

 

これもまた、戦争と医療の関係の新たな一断面ということになりそうである。

 
 
 
 
 

 

 

 



Binder: 現代史のトラウマ(日記数:666/全体に公開)
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