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国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会

2009/08/14 21:24

昭和20年の8月14日。、まだ戦争は続いていた。

小田原がB−29の空襲を受けるのは、8月15日へと日付が変るころだった。

 

 

十四日の午後、千葉から兄上がいらっしゃった。無条件降伏のことはご存じなく、火事見舞と、本土決戦をひかえて、最後のつもりでいらっしゃったのだった。その夜はまだ空襲があって、小田原が燃えた。森の向こうに赤い火の手が上がり、それは、絵のように美しかった。

     太田静子 『斜陽日記』 (小学館文庫 1998)

 

まさに、昭和20年8月14日の夜更けに、「小田原が燃えた」のである。

太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。

「兄上」同様、多くの日本人にとっては、「本土決戦」という事態がやがて待ち受けている。それが、昭和20年8月14日夜、大日本帝國臣民にとっての平均的未来像であったはずである。

 

 

 

 

本土決戦?

何のために??

国体護持のために!!!

 

戦争における敗北の経験は、それまでの「近代」の日本人にはなかったということを、ここでは思い出しておくべきかも知れない。

単に未経験な事態であるばかりではなく、神国日本の国体の精華である皇軍は不敗の存在なのであり、勝たない(勝てない、ではなく)戦争など想像のつくものではなかったように見える。戦争に、敗北という終了があることに考えが及ばない状態、とでも言えばよいだろうか?

昭和という時代は長いが、後に「戦前・戦中」と呼ばれることになる時期には、軍事的手段による大日本帝國の支配領域の拡大への努力が日常化し、それは常に成功するものと想定されていたのである。

 

現実には、昭和12年7月7日以来の「支那事変」では、見かけ上の支配領域の拡大の一方で、期待されていた中華民国国民政府の降伏による戦争状態(あくまでも「事変」であって、国際法上の「戦争」ではなかったことになってはいるのだが)の終了に至ることはなく、つまり大日本帝國の勝利として戦争状態の終了を迎えることは出来なかったのである。

支那(中華民国国民政府=中国)が負けを表明しない限り、大日本帝國としての勝利はないのである。しかし、当初の「対支一撃論」は根拠のない楽観であったし、「首都南京占領」が中国国民政府の降伏に結びつくこともなかった(国土は広く、新たな首都は重慶とされたが、南京まではたどり着けた皇軍にも、重慶は遠すぎた)。 

しかし、そのことを大日本帝國から見れば、大日本帝國も決して負けているわけではないのであって、つまり、いつまで経っても勝てないという状態が続いていただけなのだ、ということになる。

少なくとも、個々の戦闘には勝利し、大日本帝國は、その地図上の支配領域の拡大に成功したことも確かなのではあるが、安定した支配権力を確立することも最後まで出来なかったのである。

広大な国土と、無尽蔵であるがごとき中国(あるいは支那)の人的資源を前に、戦争状態はいつまでも続くものに見えるようになった。あるいは「行き詰まり」状態として感じられるようになった。

 

その「行き詰まり」の打開策として選択されたのが、米英との戦争なのである。

 

しかし、言うまでもないことであると思われるのだが、対米戦争とは、米国の広大な国土と人的資源の大きさに加え、すべてにおいて巨大なその資本力と資源量と工業生産力との戦争となることを意味するのである。

中国大陸における広大な国土と無尽蔵な人的資源を相手にしての、勝利という結末を見ることの出来ぬ戦争状態の継続の打開策が、米国との戦争であったということなのである。

中国における戦争状態を勝利をもって終えることの出来ぬ大日本帝國が、中国大陸における戦争状態の継続に加え、新たに対米英戦争を開始してしまったわけなのだ。

勝てるわけがない、と、現在の冷静な判断からは言うことが出来る。

 

 

資源量の絶対的不足、工業力の絶対的劣位、その上で「特攻」という手法の採用による人的資源(及び工業生産物)の回復不可能な浪費・消耗にまで至るのが、対米英戦争開始後の大日本帝國なのである。

しかし、戦争には負けるはずがないというのが、「戦前・戦中」と呼ばれる時代の(国体の精華としての)日本人の感覚であった(あるいは想像力の限界であった)。日本は「神国」なのであるから(20世紀の日本人は、実際に、そのように信じていたのである)、負けるはずはないのである。

 

 

自ら策定した「絶対国防圏」を侵された段階で、戦争を勝利をもって終了する可能性の喪失が判断されるべきであるし、その時点で、国家目標は、戦争継続から戦争終結への努力へとシフトされるべきであった、と現在の冷静な視点からは言うことが出来る。

 

しかし、玉砕、特攻、そして本土決戦という選択肢以外にないという視野狭窄状態が、大日本帝國の国体の精華として顕現してしまったのが、「戦前・戦中」と後に呼ばれることになる昭和の一時期のこの国の現実であったのである。

本土決戦もまた、玉砕と特攻に終始することになったはずである。「負けたと言わねば負けたことにはならず、負けたと思った方が負けなのである」とは当時の新聞紙上にありふれた言い回しであった。しかし、玉砕と特攻、あるいは特攻と玉砕の組み合わせの果てにあるのは、大日本帝國の臣民の絶滅という事態である。

絶対国防圏喪失後の大日本帝國の戦争継続理由は「国体の護持」であったわけなのだが、その結末が大日本帝國の臣民の絶滅となることは、頭を冷やせば誰にでもわかる理屈であろう。国民の絶滅によって、「護持」され得る何かがあるのだろうか?

 

 

その理屈が理解出来る程度に頭を冷やす努力もしなかった結果、昭和20年8月15日まで日本国民にとっての戦争は続き、未明の空襲により小田原市民1,500人以上が罹災し、30〜50人がが死亡することになったのである(正確な被害状況は今に至るも不明らしい)。

 

 

 

ところで、昭和20年8月15日以前の大日本帝國には、戦争における敗北の経験はなかった。つまり、それまでは、戦争を勝利という状態でしか経験したことがなかったのである(個々の戦闘における勝利の集積が戦争における勝利となるわけだ)。

その日本人にとって、戦争における敗北が何を意味していたのかを考える上で、興味深い歴史的事実がある。

あの「特殊慰安施設協会(RAA)」の存在を思い出すことが出来るだろうか?

「特殊慰安施設協会」設立の経緯は、それまで自身の「戦争の敗北」経験を持たなかった日本人の想像力が描いた「敗北後の国民」が、敵兵に陵辱される婦女子の姿でイメージされていたことを示しているのである。

戦闘の勝利が、かつてのこの国においては、戦時強姦の実行(そこでは実行する側であったことに留意)としてイメージされていたことを、あの「特殊慰安施設協会」設立の歴史が教えてくれるのである。

「特殊慰安施設協会」の存在を、あらためて、わが国体の精華として深く認識に留めておくべきであろう。

 

 

 

 

 

 

【小田原空襲】
 → http://www.asahi-net.or.jp/~UN3k-MN/kusyu-odawara.htm
【対支一撃論】
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%94%AF%E4%B8%80%E6%92%83%E8%AB%96
【神国日本】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-45c4.html
【特殊慰安施設協会】
 → http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/cat33396926/index.html

 

 

 

 

 



Binder: 現代史のトラウマ(日記数:656/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2009/08/14 23:55
    当初の目論見としては、
    小田原空襲→無差別爆撃という手法→第一次世界大戦における兵士の犠牲→機関銃の登場→軍人の論理→軍事理論と戦場の現実…
    …というような展開のはずだったのだが、なぜか「特殊慰安施設協会」の話に…

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