革命でなくて選挙=粛清でなくて落選
別に革命が起きたわけでもなく、複数政党制の下での自由選挙の結果、有権者からの政権交代要求が明らかになった。
それだけの話。
英国でも米国でも、独仏伊西蘭、タイ、韓国、台湾、ペルーでもボリビアでも、要するに「民主主義政体」を採用した国では、ごくごく当たり前の話、ってこと。
世の中には、様々な妄想を抱く人間がいるわけで、「民主党」の主導権がマルクス・レーニン主義者に握られているなんてのもそのひとつらしいが、それは妄想です。
民主党の支持基盤が組合だから、なんて理由付けもあるらしいが、その類の大きな組合は現状からの受益者なのであって、文字通りの体制変革=革命なんて求めるわけがない。非正規労働者の雇用・利益の確保ではなくて、正規労働者としての自己の地位の維持向上のための組合なんだからね。
つまり、マルクス・レーニン主義とは関係がない。
…と言いつつも、現実の世界史上のマルクス・レーニン主義者達、彼らにより構成されたマルクス・レーニン主義政党による統治の実態は、自らの党の利益の確保、党員の利益の確保に尽きたわけなので、その意味では、確かに現代日本の大企業・官公庁系の組合組織と同じようなものかも知れない。
しかし、マルクス・レーニン主義が、プロレタリアートの利益の追求を意味するのであるならば、かつての共産主義国家の党も、現在の日本の組合も、マルクス・レーニン主義とは関係ないということになる。
…なんて書いてしまうと、要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀はなんと呼ぶべきなのだろうか?
ここはやはり、現実に存在したマルクス・レーニン主義者を名乗った人間達をこそ、マルクス・レーニン主義者と呼ぶべきではないのだろうか?
つまり、自身の体制への順応者を優遇することを、自身の体制の永続性の基盤として位置付け、体制構築をしていった「共産党」という存在を考えてしまうわけだ。実際、各国共産党はマルクス・レーニン主義の正しさを主張し、自身のマルクス・レーニン主義者としての正統性を主張していたのであるし…
…しかし、マルクスやレーニンはそんなことを考えていたのかどうか?
まぁ、20世紀の現実政治の中で政治的党派の指導者として生きたレーニンと、19世紀に、経済(学)的観点から資本制経済の行く末と労働者の役割を論じたマルクスを一緒にしてしまうこと自体が、かなり乱暴な話ではある。
しかし、それを一緒くたにしてしまうところが、「マルクス・レーニン主義」という呼称のミソでもあるのだろう。
レーニンの党派性が、マルクスの普遍主義により隠蔽されるわけだ。 …なぁんてことを言うと粛清されてしまうのが、マルクス・レーニン主義者達による世界の現実だったわけだが…
しかし、反共主義者にとっても、資本制社会の現実へのマルクスによる批判を回避する上で、レーニンの政治手法・政治理論とマルクスの思想を同一視することは便利な手段ではあったのだろう。
共産主義者も反共主義者も、マルクス・レーニン主義という命名法からは利益を得ていたということになる。
ところで、現実のマルクス・レーニン主義者達の振る舞いに関して、
要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、現実のマルクス・レーニン主義者達の流儀
なんて書いてしまったわけであるが、しかしこれ、
要するに身内の利益、身内であることを表明し恭順の意を示した者達の利益を確保し、身内にその利益を配分することに努力した、戦後政治おける自由民主党の流儀
って書いても、意味が通じてしまう。
現実のマルクス・レーニン主義者達が国民にアイソを尽かされたのが、世界史的には1989年の出来事であり、わが国の自由民主党が国民からアイソを尽かされたのが2009年の夏の終わりの出来事であった。
そこにあるのは、利益誘導の限界という問題だったのではなかろうか?
…なんて文章を読むことで、妄想からの脱出は可能であろうか?
1989年に世界史的使命(と呼ばれたもの)を終えた現実のマルクス・レーニン主義と、2009年に日本史的使命を終えた(というか一段落つけた)自由民主党。
…というのは私の妄想なのだろうか?
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