グーグルで「エホバ 全体主義」というキーワードで検索すると、1ページ目の2番目に「現代史のトラウマ」の「カテゴリー:エホバの証人」が登場する。
ココログの「アクセス解析」に、たまたまそんなキーワードでのアクセス記録が残されていたので、グーグルの画面をチェックしたら、上記の状態だった。
表示を見ると、「現代史のトラウマ」の記事以外は、「エホバの証人」自体を全体主義的集団として記述しようとするものばかりである。
多分、検索者もそのような記事がお目当てだったのではないだろうか?
ロシア語と英語訳とがありますが、それをよく読んでみると、モスクワの検察当局はその訴えにおいておおむね
エホバの証人が世界に引き起こしている問題を的確に把握しています。ここでは
エホバの証人は「破壊的カルト」、「
全体主義的組織」と規定され、
...
www.jwic.info/n030801.htm - キャッシュ - 類似ページ「
エホバの証人」は、1870年代に米国で生まれた教派であるが、当然のことながら、
当初から「輸血拒否」を信仰の一部 ..... 5日 (水) ウヨク、サヨク、そしてリベラル, エホバの証人, マイノリティーとマジョリティーの間, ユートピアとしての全体主義 ...
uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/.../index.html - キャッシュ - 類似ページしかし、その組織は<totalitaire>と<sectaire>であることは間違いないのです。このニュースNo10の中でのアメリカ人の元
エホバの証人の証言を読むと、この
全体主義的システムについて理解できると思います。
www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub4-3.htm - キャッシュ - 類似ページ資本
主義から価値
主義へ.幸せな未来に向けて.. KUMO
... 1%の
エホバの証人がキリスト教
全体の代わりをすることはできない.. だがイスラム宗教は1%の極端な分派が
全体のイスラムを代っていたりもする.. ハリウッド映画でしばしば登場するイスラム
...
tag.rakuten.co.jp/redirect.phtml?cid=1448194&ch... - 類似ページエホバの証人が熱心に聖書伝道に励むことは、
全体主義宗教における隷従の結果であると見なされます。
エホバの証人が現代の道徳規準を退け、聖書の道徳規準に従う立場を守っていることは、信者の私生活に対する不当な干渉が行われているためであると見
...
jwpc.milkcafe.to/news2001-08a.html - キャッシュ - 類似ページ 一人だけ例外というのも許されない。(日本は
全体主義国家だっけ?) で、いちおう先生と相談し、白紙投票することにした。 さて、選挙演説会。 これも参加しないわけにはいかない。 しかし演説の度にする拍手は拒否した。
エホバの教えに反するから。
...
blog.livedoor.jp/crying_soul/.../cat_10006392.html - キャッシュ - 類似ページたとえば
エホバの証人の場合、彼らの礼儀正しさや面倒見の良さ、あるいは良く躾られた子どもを見て感心し、いい人たちだというよう好感を
.... 現代社会で希薄な、人のぬくもり、友情、
全体主義的一体感〈侵略戦争中の日本軍のような〉が、彼らを包む。
...
www.geocities.jp/sonomama_da/ehb.html - キャッシュ - 類似ページ2009年9月26日
... 過去の見解が間違っていた時、
エホバの証人は、預言の言葉は徐々に明らかにされていくものだと語りますが…
... 全体主義の弱点の最たる例)。が、基本的な教えは変わっていない。これは私見ですが、協会側ももうおそらく年を断定することは
...
detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/.../q1231050387 - キャッシュ - 類似ページ「
エホバの証人、北朝鮮、
全体主義」 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです−イエス・キリスト」 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい−イエス・キリスト」 私たちの前を通り過ぎる
エホバの証人の反応は多種
...
www.jesuscom.org/helpcult/news22.htm - キャッシュ - 類似ページ聖書は神の言葉であり、それを正しく解釈している組織の教理を疑うことなく信じなければならない(思考停止、
全体主義)。疑えば「背教者」となり復活の希望がなくなる。 もうすぐハルマゲドンが来て世界は滅び、
エホバの証人のみが生き残る(終末思想)
...
yosh.exjw.org/experience.html - キャッシュ - 類似ページ
そんな中に、「エホバの証人」をめぐる歴史的事実として、ナチス・ドイツの「全体主義的体制」に対し徹底的に非同調的であり、そのために強制収容所収容者中の独立したカテゴリーまで与えられた集団としての彼らの姿を伝えるブログが見事に入り込んだわけだ。全体主義的体制に対し、死をもいとわず、徹底的に非妥協的に振舞った「エホバの証人」の姿、である。
別に「エホバの証人」を称揚する気などさらさらないのだが、異なる観点の存在を、信頼性の高い資料に基づくことにより紹介・提示することが出来たことは、正直に言って、うれしいことだ。
信仰に生きるということは、その社会の多数者への適合を、当面の生の目標からはずすことを意味することがあるのである。
多数者にとっての「社会常識」からの離間をもって、その信仰を批判するとすれば、それは人間にとっての「信仰」というもののありかた、人間にとっての宗教的生き方の本質的側面というものへの理解を欠いた態度であると、私は思う。
初期キリスト教徒であれ、原始仏教の信徒であれ、その反社会性をこそ、当時の社会から非難されていたのではなかったか、ということだ。
当時の社会的期待・現世内的評価に背を向け、家族を捨てることから、彼らの信仰生活は始められていたはずなのである。そのような過激さにこそ、信仰というもの、人間にとっての宗教生活というものの発生地点があるのである。
そこを忘れたような議論に対しては、「宗教を甘く見るんじゃない!」と一喝したい気分に襲われる。多数派で構成される社会の多数派に受け入れられるような(つまり迎合的な)価値の追求を、宗教者に求めることは、本質的に誤りなのである。
検索ページに並んだ、他の記事の概要を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。
アウトサイダー型人間の呟きである。
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宗教あるいは信仰という営為の本来的反社会性を忘れてもらっちゃぁ、
…別に困りはしないが、しかし、「それは違うぞ」と言いたい訳だ。