老眼と自己決定 (32) エホバの証人、あるいは輸血拒否の論理 番外編
グーグルで「エホバ 全体主義」というキーワードで検索すると、1ページ目の2番目に「現代史のトラウマ」の「カテゴリー:エホバの証人」が登場する。
ココログの「アクセス解析」に、たまたまそんなキーワードでのアクセス記録が残されていたので、グーグルの画面をチェックしたら、上記の状態だった。
表示を見ると、「現代史のトラウマ」の記事以外は、「エホバの証人」自体を全体主義的集団として記述しようとするものばかりである。
多分、検索者もそのような記事がお目当てだったのではないだろうか?
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現代史のトラウマ: エホバの証人
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そんな中に、「エホバの証人」をめぐる歴史的事実として、ナチス・ドイツの「全体主義的体制」に対し徹底的に非同調的であり、そのために強制収容所収容者中の独立したカテゴリーまで与えられた集団としての彼らの姿を伝えるブログが見事に入り込んだわけだ。全体主義的体制に対し、死をもいとわず、徹底的に非妥協的に振舞った「エホバの証人」の姿、である。
別に「エホバの証人」を称揚する気などさらさらないのだが、異なる観点の存在を、信頼性の高い資料に基づくことにより紹介・提示することが出来たことは、正直に言って、うれしいことだ。
信仰に生きるということは、その社会の多数者への適合を、当面の生の目標からはずすことを意味することがあるのである。
多数者にとっての「社会常識」からの離間をもって、その信仰を批判するとすれば、それは人間にとっての「信仰」というもののありかた、人間にとっての宗教的生き方の本質的側面というものへの理解を欠いた態度であると、私は思う。
初期キリスト教徒であれ、原始仏教の信徒であれ、その反社会性をこそ、当時の社会から非難されていたのではなかったか、ということだ。
当時の社会的期待・現世内的評価に背を向け、家族を捨てることから、彼らの信仰生活は始められていたはずなのである。そのような過激さにこそ、信仰というもの、人間にとっての宗教生活というものの発生地点があるのである。
そこを忘れたような議論に対しては、「宗教を甘く見るんじゃない!」と一喝したい気分に襲われる。多数派で構成される社会の多数派に受け入れられるような(つまり迎合的な)価値の追求を、宗教者に求めることは、本質的に誤りなのである。
検索ページに並んだ、他の記事の概要を読みながら、ついそんなことを思ってしまった。
アウトサイダー型人間の呟きである。
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