太宰治「斜陽」の舞台、小田原の別荘全焼
…と、ニュースのタイトルにあった(12月26日10時16分配信 読売新聞)。
記事の内容は、
26日午前4時過ぎ、神奈川県小田原市曽我谷津の別荘「雄山荘」から出火。木造2階住宅約100平方メートルを全焼し、約2時間15分後に鎮火した。
けが人はなかった。
別荘は、太宰治の小説「斜陽」の舞台として知られる。小田原署が原因を調べている。
同署などによると、近くを通りかかった男性(49)が火災に気付き、「オレンジ色の炎が上がっている」と119番した。建物は近くの農業男性(63)の所有で、10年ほど前から空き家だったという。
最終更新:12月26日10時16分
…となっている。
遅い目覚めの後に、PCの電源を入れ、ネットに接続すると、そんなニュース記事が目に入った。
他にも、
26日午前4時ごろ、神奈川県小田原市曽我谷津にある作家・太宰治ゆかりの旧別荘「雄山(ゆうざん)荘」から出火、木造平屋約140平方メートルを全焼した。建物は空き家で、けが人はなかった。小田原署は不審火と見て出火原因を調べている。
雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた。太宰は戦後間もない1947年に訪れ、1週間滞在し「斜陽」を書いたとされる。37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。
近くの住民によると、同荘は92年ごろから空き家になっていた。【澤晴夫】
という記事(毎日新聞 12月26日9時59分配信)があった。タイトルは、「火災 太宰ゆかりの「雄山荘」全焼、不審火か 神奈川」である。
写真は、読売新聞(上)、毎日新聞(中)、産経新聞(下)
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個人的に、心痛むニュースであった。
太宰文学ファンではまったくないのだが、この話、他人事ではないのである。
これまでも、太田静子(近代文学史的には太宰治の「愛人」ということになる)の『斜陽日記』の方は、何度か「現代史のトラウマ」で引用させてもらっている。
たとえば、「国体の精華としての、特攻、玉砕、本土決戦、そして特殊慰安施設協会」では、その『斜陽日記』からの引用に加えて、
太田静子自身は、8月12日に訪れた加来氏から、「無条件降伏に決まったことを教え」られていたのだが、そのこと(御前会議でのポツダム宣言受諾決定)を知らぬ「兄上」にとっては、戦争はまだまだ終わらず「本土決戦」へと続くものだったわけである。
と、前後の事情の説明を試みていたわけだ(→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-4147.html)。
この際だから告白してしまうが、この「加来氏」として登場する人物は、私の祖父に当たる人物(加来金升)なのである。
そして、「毎日新聞」の記事にある、「雄山荘は昭和初期に小田原出身の実業家の別荘として建てられた」という一文の、「実業家」の正体が私の祖父という関係になるのだ。ただし、「小田原出身」というのは誤りであるが…
「産経新聞」の記事(12月26日19時28分配信)では、
「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。昭和22年2月に太宰治が数日間滞在。その後、没落する華族の姿を描いた名作「斜陽」を書いた。太宰の生誕100年の年に、ゆかりの建物が失われた。
太宰の娘で作家の太田治子さん(62)によると、太田さんの母で「斜陽」の主人公のモデルとされる静子さん(故人)が戦時中に疎開し26年まで暮らした。太田さんは3歳まで暮らし、「かやぶき屋根の数寄屋造りながら、2階に中国風の間とスペイン風の寝室があり、風流で落ち着いた雰囲気の家でした」と振り返る。
太宰は愛人だった静子さんに「ここはいいところだ」と繰り返していたという。太田さんは「小説のイメージ通りの舞台を見つけ、太宰は喜んだと思う。母もうれしかったでしょうが、愛人の立場として永続できない悲しみもあったはずです」。
太宰は静子さんの日記を下敷きに22年6月、「斜陽」を書き上げ、翌23年6月、別の愛人と東京都三鷹市の玉川上水に入水した。
今年9月、太田さんは雄山荘を舞台に、父母についてつづった著書「明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子」を出版した。「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。
となっている。記事には、
「雄山荘」は昭和初期、東京の印刷会社社長が接客用の別荘として建てた。
とあるが、祖父は確かに「東京の印刷会社社長」ではあった(美術印刷専門であったらしい)が、「接客用の別荘として建てた」というのは事実ではない。
先が長くないと診断された祖父の母の療養の場として、温暖で景色のよい(富士山がよく見えるらしい)地を選び、「別荘」としたのである。しかし、完成した時には既に祖父の母は他界しており、自分の占有の「別荘」としてではなく知人にも広く利用を呼びかけたというのが、事の真相である。
ちなみに、オリジナルのネーミングは「大雄山荘」である。「大雄山」という附近の山の名に因んだ命名であったが、後にお住まいになった方が「大」という(ある意味オーゲサな)字への抵抗感から「雄山荘」とし、それが通用名となったということのようだ(どことなく気持ちはわかる気がする)。
参考までに、祖父自身が作成した「大雄山荘」の冊子の写真を掲げておこう(小学館文庫の『斜陽日記』の巻末に紹介されているもののオリジナルである)。
「大雄山莊公開に就て」と題された文中には、
不肖平素聊か考ふる所あり、これを獨り專用し
て晏如たる能はず。拠つて之を公開し、母に盡さ
んとしたる志を轉じて辱知諸賢に奉仕せんとす。
という言葉がある。
「10年ほど前から空き家だった」あるいは「同荘は92年ごろから空き家になっていた」ということだが、別の記事(「カナロコ (神奈川新聞) 12月26日19時0分配信)によれば、
最後の借家人が去った93年、太宰ファンや市民が雄山荘の保存を求める要望書を市に提出。市は数年前まで所有者と交渉していたが、所有者側の意向で決裂し、老朽化が進んでいた。
ということである。
結果として、文化財としての保存は叶うことなく、太宰生誕100年の年の暮れに焼失してしまったわけだ。
所有者として建物を持ちきれなかった建築主の親族としては、言うまでもなく建物の保存は望むが、しかし金銭的援助も出来ぬままに保存運動に名を連ねるということもまた下品な話に思えて、手をこまねいているうちに雄山荘自体が焼失してしまったのである。
「寂しいけれど、家が朽ちていくのを見るのもつらい。これが一つの区切りかなとも思う」と話した。
という太田治子さんの言葉に、寂しいことではあるが、頷くことしか出来ない。
ところで、
37年には俳人・高浜虚子が訪れ、下曽我を紹介した句も残している。
という句会の際に、虚子一行の接待をしたのが、祖父の娘であり後に私の母となる加来都であった。
彼女は先日の写真展の主人公でもある。私の撮影した母の最後の日々に加えて、祖父の撮影した(1913年)、誕生直後の母の写真を添えて展示プランとしたばかりである。なんというタイミングであろうか…
(写真展については
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/lachrimae-7864.html
→ http://www.freeml.com/ep.umzx/grid/Blog/node/BlogEntryFront/user_id/316274/blog_id/122197)
写真展準備の中で、あらためて雄山荘に関する記事を読んだりしていたことを思い出す。そもそもの祖父にとっての雄山荘の建築動機が、その母の介護であったことを知り、どことなく因縁まで感じたものである。
その「別荘」が焼け落ちてしまった。
ダミニストを自称する孫は、祖父と異なり非行動的であった。「出不精」なのである。これまで「雄山荘」を訪れたこともなかった。
「黒色すみれ」(今年公開の太宰映画の音楽担当)のファンである娘とは、「今度、行ってみよう」と話をしていたのに、実現する前に焼け落ちてしまったのである。
年末の悲しいニュースであった。
雄山荘については、
→ http://oota-shizuko.seesaa.net/category/1257220-1.html
→ http://www.archi-nishijima.co.jp/portfolio/ronbun/ronbun.htm



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