本日はゴキブリ現れずの神は何語で話すのか日記
(本日も愛好者向け、だけど読むのは簡単、内容はどーなんだか)
不可視の神。
どのようにその存在を知りうるのだろうか。存在の確認はいかにして可能なのだろうか。
なぜ、「不可視」なのだろうか。
つまるところ、神が可視的なものであれば、共通認識としての神の姿が人類に共有されているであろう。眼が見える者ならば、神の姿を知っている、ということになるわけだ。誰でもがその姿を描くことが出来るはずだ。巧拙はあっても、モデルは同じなのである。絵に描ける神の姿。撮影も出来ることだろう。目に見えるものならば。
現実には、神は、視覚的認識の対象ではないらしい。神との遭遇を語る者はいても、その姿に共通点があるのかないのか。共通点があれば、神をめぐる争いが生じるはずもない。もっとも、複数の神が存在するのだとすれば、見出された姿の相違は説明可能となる。
神の複数性を容認するのであれば、問題は生じない。それぞれ異なる人物が、それぞれ別の神と遭遇した、というだけのことに過ぎない。
神は視覚的認識の対象ではあるが、多くの人間に出会うチャンスが用意されているわけではないということになる。
唯一の神の存在が語られる時に、問題は始まる。
唯一の神が可視的な存在であるとすれば、その神の姿を見た者は、限定されることになる。神の姿の多様性は否定され、誰かの見た姿のみが真の姿でしかありえない。
もっとも、前から見たのか、見たのは後姿だったのか、検討の余地はいくらでもあるであろう。証言をつき合わせ、じっくり比較検討出来れば、その姿を突き止めることは可能なはずだ。
あるいは化粧好き、あるいは衣装変更大好き、要するに変身好きの神であれば、その姿の多様性が説明出来るかも知れない。
しかし、そんなことしてどうしようというのか、お色直し好きの神よ!?
いずれにせよ、可視的な唯一神であるならば、その姿に関する共通認識が人類の所有物となっているはずだ。既に十分な時間があったように思うのだが、まだ足りないのだろうか、合意の形成には。もっとも、現代の世界を見渡して、そのような合意の形成への努力を続けている人間を私は知らない。人類はあきらめたのであろうか。飽きたというだけなのか。忘れてしまったのか。それとも神の方がどこかへ行ってしまったのか。初めからいやしなかったのか。
不可視の神がそこにいるのだとすれば、その存在をどのように人類は知りうるのか。
姿はなくとも声はする、ということなのか。
しかし、これは難しいぞ。
声だけで、人物を特定することは簡単なことではないではないか。似たような声の持ち主は多く存在し、その口癖や話のスピード感、話の内容、そしてその姿によって、やっと話者の特定は可能となるのである。
その声が神のものであるのかどうか、声だけでどのように確定出来るのか。
聴覚的認識の対象で神があるということがはらむ難問である。それに、第一、何語で神は話すのであろうか。
それが唯一神であり、特定の民族神ではなく人類に普遍的な神なのだとすれば、特定の言語で神が話すというのは、どこか想定としてはおかしい。もっとも、相手に合わせ、神は言語を使い分けているという説明は可能であるが。
声はしないけど、頭の中には聞こえるのか?
電波?宇宙人の声?
聞こえるという人を知らないわけではないが、本当に神の声?
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