〈片道切符〉と〈往復切符〉
―自らすすんで冒険へと向かう人々は、たとえどんなに苛酷な環境のなかにあっても、〈往復切符〉をもった人たちではないのか。自然災害で被災した人々のように、先の見えない〈片道切符〉しか持ち得ない人たちと、どうやって結びつけて考えたらよいのか―
僕はその問いに対し、今以て確かな答えを持ってはいない。
冒険は〈片道切符〉であってはいけない。
それが冒険者たちに架せられる、おそらく唯一といっていい使命である。
…という話から、昨夜のある研究会―昨年末のアラン・ボンバールの著書が紹介された研究会―は開始された。
この話をしたのは研究会の中心メンバーであり、南極観測隊員として南極の生活を体験した人物である。ここでの「冒険者」とは、単なる無鉄砲な人物のことではなく、苛酷な環境に自らを送り込みながらも、生還を期し、そのためのあらゆる準備を怠ることのない注意深い人物像として想定されている。
〈往復切符〉というメタファーには、そのような想定が反映されているのである。目指されているのは当てのない放浪ではなく、苛酷な環境の中での生存と帰還なのだ。
メンバーのやり取りの中で「自然災害で被災した人々」は、では〈片道切符〉の保持者であるのか?という問いが発せられた。
つまり、〈往復切符〉であれ〈片道切符〉であれ、その前提となるのは当人の意思の存在である。しかし「自然災害で被災」するということは意思の問題ではなく、いわば事態に「巻き込まれてしまう」という状況なのではないのか?
このようなやり取りは、〈片道切符〉あるいは〈往復切符〉というメタファーから喚起されるイメージをいかに膨らませ、そのイメージの多様な可能性に気付くことが出来るのかどうか?というところが重要なのであって、〈片道切符〉あるいは〈往復切符〉というメタファーが持つべき本来的イメージについて論争することではない。
…ということを書くのは、そのようなレベルの論争に陥る経験の方がありふれたものであるからだ。もちろん、今回の議論は、そのようなレベルの論争に陥ることなく、それぞれが抱いたイメージを語り合うことで、実に刺激的な展開となったのであった。
さて、(危険な中を往復し生還する)冒険者という類型に対し、(どちらかと言えば安全な中を往復し帰宅する)旅行者という類型が描ける。放浪者という類型(昨夜はそのような表現がされたわけではないが)は、生還・帰還という前提を欠くことで、いわば〈片道切符〉の保持者としてイメージされるであろう。
…というような整理をしつつ、別の類型の可能性が提示される。「開拓者」の持っているのはどのような「切符」であるのか?
そんな議論の展開の中で、西田正規氏の著書『人類史の中での定住革命』(これは我が愛読書であった)の内容が紹介された。そこでは「移動」と「定住」という二つの生活様式が問題化されているのだ。
で、「移動」と「定住」という類型を「開拓者」に適用することで何が見えてくるのだろうか?
「開拓」の出発点となるのは、現状の苛酷さであろう。生活の現状の苛酷さが新天地への憧憬をもたらすのである。その憧憬、やがてたどり着くはずの新天地への期待が、開拓途上のサバイバルの苛酷さを打ち消すのであり、「移動」としての「開拓」行為の果てには新天地における「定住」が思い描かれているはずである。
ここでは「移動」そのものに意味を見出す生き方と、「移動」を(それが〈往復切符〉的な出発点への帰還であれ、〈片道切符〉的な新天地への到着であれ)「定着」と「定着」の中継ぎ的的行為として位置付けるタイプの生き方の二つの類型があることが、あらためて見出されることになる。
人生そのものには〈往復切符〉は存在しないわけだが、その事実がまた、このメタファーが喚起するイメージを複雑なものとしてしまう根底となっていることにも気付かされたりするわけである。
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