晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい
昨日のお買い物だった、『マクベス』、安西徹雄訳なのだが、例の魔女のセリフは、
晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい
と訳されていた。
マクベスのセリフを、
これほどにも晴々しく、これほどにも禍々しい日は、見たことがない。
と訳しているのに対応させたのだろう。
Fair is foul, and foul is fair
きれいは汚い、汚いはきれい
so fair and foul a day I have not seen
こんなに美しくいやな日はみたことがない
でなければならない理由はない、とも思う。
しかし、言葉としての対比感では、「きれい」と「汚い」の組み合わせの方に軍配が上がる気がする。
しかし、マクベス自身のおかれた状況を考えれば、軍功をあげた「晴々しい日」であると共に、やがて国王殺害の当事者となる「禍々しい日」でもあり、ストーリー上からは、安西訳の意味はよく理解出来る。
発せられたセリフの対比感が瞬時に理解されやすいのは、
きれいは汚い、汚いはきれい
の方であるにしても、マクベスのセリフを、
こんなに美しくいやな日はみたことがない
としてしまうと、
Fair is foul, and foul is fair
so fair and foul a day I have not seen
のどちらも、「fair」と「foul」の組み合わせとして、シェイクスピア が書いたこと、そこに込められたシェイクスピアの意図が、観客には伝わることがない。
しかし、
晴々しいなら 禍々しい、禍々しいなら 晴々しい
という訳からは、
狸は猫、猫は狸
猫は狸、狸は猫
という連想が生まれることはなかっただろう。言葉としては、
きれいは汚い、汚いはきれい
の方が、『マクベス』という戯曲の外部への流通力を備えていると言えるだろうか。
きれいは汚い、汚いはきれい
なら、終演後も観客の記憶に残るはずだ。シェイクスピア自身はどちらを選択するのだろうか?
戯曲内部での意味連関を重視するのか、それともセリフが観客の記憶に残ることであろうか?
…と、なぜか、いつになく上品な教養日記(?)となってしまったのだが、こんな日記の背後にもたぬき男いたち男の存在があるわけだ。
狸は猫、猫は狸
猫は狸、狸は猫
から生まれたのが、「きれいは汚い、汚いはきれい」をネタとして使いたいという発想だったのだから。
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