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老眼と自己決定

2009/01/29 22:03

老眼のカミングアウト、ってのは、しかし、どこか悔しいところがあるのかも知れない。


既に「若い者」ではなくなってしまったことを、当人の意思とは無関係に自覚させられるように仕向けられた感じだ。




データをプリントアウトしたはいいが、メガネ(もちろん近眼用の)のままじゃ読めない。紐の結び目を解くことが出来ない。CDの中身をチェックしようにも、たとえば、文字が小さ過ぎて録音日時の確認が出来ない。


様々な瞬間に、老眼の自覚を強要されるのである。


まぁ、生物としてのヒトという枠組みで考えれば、世界からの引退の時期、ということなのだろう。「人生五十年」というのは、要するに、そういうことなのだろう。


しかし、人類は、寿命の延長に心を砕いて来たわけだ。公衆衛生や医療、戦争の抑制は、寿命延長の原動力だ。

その結果、先進諸国では、高齢者の人口比率が高まり、老人の存在が社会問題化している。想定内の出来事なのか、それとも想定外の出来事なのであろうか?


いずれにしても、私が近代以前のシステム内の住人であれば、既に晩年なのであった。

老眼とは、近代以前には、晩年入りの徴のようなものだったのかも知れない、なんてことを思ってみたりする。




もっとも、近代以前の社会でも、老人の存在は知られていた。幸運あるいは強運の下では、喜寿米寿も可能性の内部ではあったのだ。生き延びて老人となることは、誰にでも出来ることではなかったが、達成し老境を生きる経験をする人物が皆無であったわけでもない。

しかし、それはあくまでも稀有な経験であり、だからこそ祝福される対象ともなり得た。


誰でも老人であることを経験し得る状況。それこそが現代社会で特徴的なことであろう。

しかし、同時に、それはありふれた事態に成り下がり、既に祝福の対象ではなくなってしまった。老人であることが、当人にとっても周囲にとっても、あまり祝福されるべき事態ではなくなりつつあるように感じる。


人生から死を遠ざけること。近現代社会の根底にある基本的な方向性と言うことも出来るだろう。

もっとも、近代における戦争は、人生において国家のための死を受け入れることを、国民に対し要求するものでもあった。そこでは、自らの意思をもって死に近付き行くことこそが求められていたわけだ。


それでも、第一次世界大戦および第二次世界大戦の経験は、戦争による死がどのようなものであるかについてのリアルな認識を人類にもたらした、とでも言うべき側面があることを否定することも出来ない。




特に、ナチスドイツによる、(その対象が、ユダヤ人であれ精神障害者であれ)政策的な「生きるに値しない命」への死刑(厳密には「刑」ではないわけだが)宣告は、他者への死の強要の「権利」の所在への、根底的な疑問を持つことを人類に求めるものとなった。

他者の死への決定権は、誰のものであるべきなのか? あるいは、誰のものでもないのではないか? という反省的思考が、そこに生じ、人類に共有されるものともなった(もちろん、共有しようとしない人間達の存在もまた無視し得ないものではあるのだが)。




誰が、死を決定出来るのか?

本人による決定ならオーケーなのか?

「自殺」は自己決定として尊重されるべき行為であるのかどうか?



ナチスドイツにより受容・実践させられることになった、「生きるに値しない命」という発想は、1920年に出版された、法律家カール=ビンディングと医師アルフレート=ホッへの共著になる『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』と題された書物に遡るものだ。


そこでは、


 1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
 2)治療不能な知的障害者
 3)瀕死の重傷者
 

の3つのケースが、法律家カール=ビンディングにより、安楽死の対象として想定され検討され、2〉のケースが特に精神科の医師アルフレート=ホッへによる考察の対象となっており、特にアルフレート=ホッヘによる考察部分が、ナチスの政策として結実していくのである。

しかし、カール=ビンディングのそもそもの問題意識は、「自殺」を犯罪として取り扱うべきかどうかに関する、法学上のものであった。死の決定主体と、法学上の「殺人行為」との相関を問うものであった、と言い換えることが出来るかも知れない。


自己に対する、死の自己決定としての自殺を「殺人」という範疇の行為として記述することに、法学者としてのビンディングは慎重であった。当人の意思に反する死の強要こそが「殺人」の構成要件とまで考えたのかどうかは、現在手元に参照するべき本がないので確言出来ないのだが、そのような問題関心が彼の発想の源にはあったわけだ、ということは思い出しておくに値する。



人の身の上に起る死は、誰によって決定されるべきものなのか?




我が身の上に起きた老眼の話題から、はるか遠い地点にまで来てしまったが、老眼が当人の意思を越えた地点での出来事であるように、当人の死もまた当人の意思の内部の出来事ではないのではないか、なんてことを考えているわけだ。





Binder: 現代史のトラウマ(日記数:666/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    みやのたれ
     2009/01/29 23:48
    みんなナチスのそれを批判するけど、
    わたしは・・・、究極的には
    胎児に障害があると分かって中絶することや
    より優秀な男の子を生みたいと思うことと
    どう違うんだろうなって…思うのです…。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2009/01/30 00:08
    みやのたれ様


    カール・ビンディング自身の問題意識自体は、
    ナチスによる政策的な弱者の生成と排除とは無関係、
    のように私には思えます。

    自殺と殺人の関係性が、
    ビンディングの考察のスタートであり、
    そこから派生して、
    他者の苦痛からの解放としての安楽死を問題化した。

    そこにビンディングの考察の焦点があったと、
    私自身は考えています。


    ただし、その発想の通俗化には慎重でないとならない、
    というのがナチスの残した教訓ではないかと…
    排除の対象が自分であった時の恐怖、ということですね。

  • Comment : 3
    みやのたれ
     2009/01/30 00:20
    わたしはどっちかというと排除される側の人間なので
    いっつもこのことを考えています。
    (生きていてもコミュニケーション障害を抱えている以上
     「排除」の対処にもなりますし。)

    わたしが生まれたとき、目も見えなかったので 父は
    「この子は死んだほうが幸せだった」
    と言ったそうです。
    母もわたしの将来を不憫に思ってたくさん泣いたそうです。

    カール・ビンディングの思想を基軸にすると、
    出産前に障害の存在が分かっていたら
    わたしはとっくに死んでいたことでしょう。

    今、わたしは健常者が思いつきもしないような
    たくさんつらい思いをしながらも、生きています。
    やっぱり「こんなモノを背負っていくくらいなら
    生まれる前に死んだほうが幸せだった。」
    と思うこともたくさんありますが、
    こうして桜里さんと話せますし、
    好きな本だって読めますし
    好きな人とも会うことができます。
    できないこといっぱいありますが、できることもいっぱいあって
    不幸せと幸せの帳尻をつけて生きていくことができます。


    ボーダーに立つわたしからすると、
    「生誕前に生物としてのエラーを排除する」という意味では
    カール・ビンディングの思想もナチスの思想も
    そうたいして代わりはしないのです。

    善意もくそも、生まれる前の胎児には知りようがないのですからね。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2009/01/30 21:04
    みやのたれ様


    >カール・ビンディングの思想を基軸にすると、
    >出産前に障害の存在が分かっていたら
    >わたしはとっくに死んでいたことでしょう。

    ビンディングの思想というより、
    精神科医ホッヘの思想ではないかと…

    記憶によれば、
    一冊の本になっているけど、
    独立の論文と考えた方が適切な感じがしました。

    ビンディングの論文では、
    法学上の「自殺」の問題から派生した話題として、
    日記中の問題である、
     ↓ ↓

     1)助かる見込みのない患者〈末期癌の患者など〉。
     2)治療不能な知的障害者
     3)瀕死の重傷者

     ↑ ↑
    への安楽死が取り上げられているのですが、
    その実行の主張というニュアンスはない、あるいは小さい、
    という印象です。

    一方、ホッヘの論文では、
    障害者に対する安楽死政策の必要性が、
    社会的コストという観点から、
    あからさまに主張されていました。


    ただ、ビンディングの提起した問題自体も、
    直接的ではないにしても、
    ナチスによる政策と、
    無縁であるとは言い切れない側面が確かにあります。

    1)および3)は、
    当人の意思に基づく自らに対する殺人行為としての、
    自殺問題の延長ですが、
    2)の問題は、それとは異なるものです。
    ここでは、当人の意思の問えない存在としての、
    重度の知的障害者に関し、
    第三者による安楽死の実行の妥当性が問われているわけですね。

    ここでは、「人間」が、
    意思あるべき存在として定義されてしまうことにより、
    意思の発露の観察されない知的障害者を、
    「人間」の外部の存在として措定することにより、
    障害者殺害を、殺「人」とは異なるものとして、
    取り扱うことを可能にする法的態度が生まれるでしょう。
    それは大変に危険なことである、というのが私自身の思いです。

  • Comment : 5
    みやのたれ
     2009/01/31 23:12
    >意思の発露の観察されない知的障害者を、

    この場合、胎児の場合はどうなのでしょう。
    あと、植物人間の場合、脳死の場合。
    (脳死には意識はないが植物人間は意識がある。)

    >障害者殺害を、殺「人」とは異なるものとして、
    >取り扱うことを可能にする法的態度が生まれるでしょう。

    では、「大量殺人者の死刑」はどうでしょうか?
    現在脳医学の分野では、犯罪を犯してしまう人も
    一種の脳のエラーが見られることが分かってきています。

  • Comment : 6
    umasica :桜里
     2009/02/01 11:22
    みやのたれ様


    >この場合、胎児の場合はどうなのでしょう。
    >あと、植物人間の場合、脳死の場合。

    …という問題は、
    ビンディング自身は取り扱っていないのですが、
    「意思表示」の可能性という文脈からは、
    同形の問題として考えることも出来るでしょう。
    胎児のケースの相違点としては、
    既に生まれているか、誕生以前の存在であるか、
    ということでしょうか。
    新生児死亡率の高い状況では、
    その間のハードルは高く、
    現代の先進国の医療状況では低いものとなった、
    と言えそうです。

    胎児と脳死者の場合は特に、
    「生きている人間」をどのように定義するのか、
    という問題が焦点となるでしょうね。
    つまり「考え方」の問題だということ。
    脳死者を死体と取り扱うことにより、
    脳死移植が可能になるわけですから。

    いずれにしても、
    それを定義すること、決定することは、
    強者の行為であり、強者の論理に属するのだ、
    ということに自覚的であるべきだと思います。


         (続く)

  • Comment : 7
    umasica :桜里
     2009/02/01 11:22
         (続き)


    >では、「大量殺人者の死刑」はどうでしょうか?
    >現在脳医学の分野では、犯罪を犯してしまう人も
    >一種の脳のエラーが見られることが分かってきています。

    日本では、刑法39条で、、

     1 心神喪失者の行為は罰しない
     2 心神耗弱者の行為は、その刑を軽減する

    という取り扱いが原則となっているわけです。

    ここでは、
    「刑罰」とは、本来、何なのかが問われる必要がある。

    復讐、応報、、抑止、矯正…といった多様な意味付けの中で、
    どのような位置付けで「死刑」を考えるのか?

    死刑の場合、
    対象となった者から「矯正」の機会は奪われてしまう。
    「抑止」効果には疑問が付されている。
    「応報」とするならば、本人の責任能力が焦点となる。
    「復讐」と考えれば、「死刑」の選択は合理的である。
     (しかし、法学的には、
      刑法の体系は「復讐」のためのシステムではない)
    …というような論点が見出される。

    その上で、「一種の脳のエラー」に起因する犯罪行為を、
    どのように評価すべきなのかについて考えようとすると…
    そこにも再び、
    「主体の意思」の問題が横たわっていることに気付く。

    「人間の定義」が再び問題として浮上してしまう。
    弱者の視点から、「人間の定義」を再検討すること。
    それが課題、ということでしょうかねぇ…

  • Comment : 8
    みやのたれ
     2009/02/01 14:31
    済みません、脱字を見つけたので一度削除して書き直しています。

    >その上で、「一種の脳のエラー」に起因する犯罪行為を、
    >どのように評価すべきなのかについて考えようとすると…
    >そこにも再び、
    >「主体の意思」の問題が横たわっていることに気付く。

    そうなのです。
    「そもそも人間に自己の行動決定能力なんてあるのでしょうか・・・?」
    となりますよね。

    >「人間の定義」が再び問題として浮上してしまう。

    わたしは、あまりにも議論ができない人や
    周囲のムードや世間の常識を無条件に信じる人のことを
    わたしの師匠に話していたときに
    「もう IQ120以下は死んでよくない?」←たいていの人が該当。
    と暴言を吐いたことがあります。(冗談として。)

    そのときに、師匠に
    「きっと IQ119以下の方々から不満が寄せられるでしょうね。」
    「そして次の世界の基準は
     『IQ120〜140(旧世界の数字)は知的障害』
     となるのでしょうかね。
     そして160〜140の方々は
     『あの知的障害者は殺してよくね?』
     と思い出すかもしれませんね。
     そしたら次は180〜140の方々が・・・。」
    と言われ…

    いわゆる「下」とされる人たちを取り除いていくと、
    いつか世界は一人以外、誰もいなくなってしまうなあと。
    (「悪」も同じかも知れません。
     どんどん「悪」を取り除くと、最後は一人だけになります。)

    どこまでが「精神障害」なのか?
    どこまでが「知的障害」なのか?
    と、同時に
    「責任能力とは何なのか?」
    という考察も必要ですね。

    そして結局は、どういう社会を目指すか?「何」を裁くのか?
    というのが重要にも思います。

  • Comment : 9
    umasica :桜里
     2009/02/02 00:01
    みやのたれ様


    >わたしの師匠に話していたときに…

    >そのときに、師匠に…


    話し相手がいる、というか、
    話し相手を務めることの出来る相手がいるのは大事なこと、
    って思いますよね。


    今回の話題も、
    現・私の娘の母との、かつての会話がベースにあります。

    当時の彼女は、重度障害者療育施設の職員。
    重度心身障害者療育施設の職員として、
    障害者に何を保障すべきなのか?というのが、
    当時の彼女のテーマの一つだった、ように記憶しています。

    関係性の中で、
    自らが強者であることを自覚しないと、
    強者の論理で事態を進行させてしまうものです。

    また、生者と死者、人間と人間ならざるもの、
    といった間の線引きも、
    そこで排除されることになる存在にとっては、
    それ自体が徹底的に無慈悲な権力行使であり得る、
    ということへの想像力を持ち続けることの重要性、
    …なんて話をしていたのは、もう十数年前のこと。

    …なんてことを思い出してみたりして…



    >そして結局は、どういう社会を目指すか?「何」を裁くのか?
    >というのが重要にも思います。

    そこがポイントだと思います。
    技術論で終わらせるのではなく、
    「どういう社会を目指すのか」という展望を、
    常に視野の内に入れた上で、
    しかし細部を見落とさないことを心がけたい、
    と思ってはいるのだけど、
    話はあっちへ流れ、こっちへ流れ、ではありますね。

  • Comment : 10
    みやのたれ
     2009/02/02 17:32
    >話し相手を務めることの出来る相手がいるのは大事なこと、
    >って思いますよね。

    これは本当にそう思います。

    ぽろっと話したことでも、
    その人が受け止めて返したことによって
    それを私が受け止めて返して、
    まとまってかたちになっていく・・・
    手ごねハンバーグの空気抜きみたいな
    かんじですかねえ〜。
    (ああ、お腹が減ってきました。)


    >関係性の中で、
    >自らが強者であることを自覚しないと、
    >強者の論理で事態を進行させてしまうものです。

    「どういう社会・国家をめざすのか」によっては、
    強者の論理で事態を進行させることが
    「正しい」となることもありますよね。
    これは師匠の受け売りなので
    わたしの口から申し上げるべきではないかも
    知れませんが、
    資本主義や民主主義などは平和な社会で
    産まれたものですし、
    戦時中などは強者の論理が
    優先されたりしますよね。

  • Comment : 11
    みやのたれ
     2009/02/02 17:32
    >想像力を持ち続けることの重要性、

    これは重要だと思います。
    「想像力」。
    「強者」側が想像力に乏しいと、
    必要のない「ライン以下」ができます。


    例えば(わたしは耳が聞こえない)

    上司「みやさん、廊下は静かに歩いてね」
       (対話をしないまま通り過ぎる)
    みや「静かってどうやって??????」

    音が聞こえないと、自分が出している音を
    確認しようがない。
     ↓
    静かにできない

    評価が下がる

    うつ

    ↑↑

    ちょっと単純すぎる例ですが、
    ここで上司が「かかとから足を下ろして・・・」
    などのように指導すれば
    聞こえない人にも対処できますよね。
    つまり
    「廊下は静かにあるいてね」
    は、強者(健常者)ベースの指導であって、
    弱者(聴覚障害者)にとっては
    クソの役にも立ちません。
    が。
    そんなことに気づくほど想像力のある人は
    100人いて1人いるかいないか。


    このように、
    自分が「強者」である場合、
    常に想像力や洞察力を磨かねば無駄が出る、
    とわたしは思います。
    この「無駄が出ること」について、
    倫理的・社会的にどうかはその社会によりますが。
    (考えるの疲れるからわたしは弱者でいいですけどね・・・。)


    >話はあっちへ流れ、こっちへ流れ、ではありますね。

    はい。
    ときには「アッチ」が本題になり、
    出た結論がもとの論旨に対して
    本末転倒になってしまうことも。(笑)

  • Comment : 12
    umasica :桜里
     2009/02/04 22:11
    みやのたれ様


    >自分が「強者」である場合…

    このことに気付くこと自体が難しい。
    文脈次第で、
    人は気付くことなく強者にもなれるし、
    強者であるつもりで弱者となってしまうこともある。

    まぁ、私自身についても、
    何かというと、
    あくまでも論理で押して行ってしまうところに、
    それが出来ない(出来ないゆえの)弱者の存在を、
    無視してしまいかねない困ったヤツじゃないか?
    っていうことを考えることはあるけど、
    まぁ、やっぱり、難しいところだなぁ…

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