陸軍冬期戦研究所 (とらぬタヌキの肉算用)
斎藤智久『智久日録』(幽玄閣 昭和31年)には、戦中の疎開先での様々なエピソードが書かれている。
斎藤智久の本業は英文学者だったらしいが、同書を読むと、姻戚関係を通しての陸軍中枢部の軍人達との交流が窺われるところが興味深い。
また、いわゆる学者一家という印象で、家族がそれぞれに民俗学であったり物理学であったりといった分野で活躍していたらしい。
群馬の奥野村への疎開は、昭和19年の晩秋に済ませており、翌20年1月27日の空襲で小石川の自宅が焼かれた際には、疎開済みの家財だけは無事だったということだが、相当量の蔵書を焼かれてしまっている。蔵書を焼かれる気分には、想像するだに辛いものがある。
同書によれば、その日は、東京に滞在中で、品川での会合を終え帰宅した時には、自宅は既に焼け落ちていたという。
その品川での会合もまた、私には、興味深いものだ。民俗学関係の集まりだったらしいが、
シュケムトビク氏の蒐集せる土民の用具類を観察す。
鼻長き神像面白し。
という記述からは、ハイアイアイ島住民の貴重な民族資料が、当時の日本国内に存在していたことが推測されるのである。その後の資料の消息は不明であるが、空襲の犠牲になった可能性はありそうである。また、資料の提供者が海軍関係者であるらしいことにも興味を覚えた。
さて、奥野村への疎開は、陸軍関係者の紹介によるものだったと書かれている。当時の奥野村には、「陸軍冬期戦研究所」と呼ばれた、軍の研究所があったのである。
狸の養殖が、研究所の課題であったらしい。
つまり、軍用の毛皮の供給源としての狸、ということであろう。
ここで興味深いのは、研究所の設立年代である。同書によれば、それは昭和14年であった。満洲事変により、既に満洲は大日本帝國の支配領域であった。
対ソ戦を前提とした陸軍の戦略構想を考えれば、その時点での毛皮の供給源の確保は、実際的問題であったのだろう。
ただし、大東亜戦争は対米英戦争として始まり、戦場も南方地域であった。戦局の逼迫と共に、北方の寒冷地の戦場用として想定されていた狸の毛皮の確保の優先度は低下してしまう。
斎藤智久の疎開した昭和19年の時点では、予算の削減という事態に発展していたようである。
陸軍との関係からの疎開先の選定ということで、研究所の陸軍軍人との交流が深かったようで、研究所の内情への言及は詳細で信頼度が高い。ちなみに、「陸軍冬期戦研究所」という正式名称は通常は用いられず、「勝々山部隊」と称していたらしい。『智久日録』刊行当時には研究所の建物も残されており、付近一帯は、村民からも「勝々山」と呼ばれていたということだ。
予算削減という提案に直面した当時の所長、清水七郎大佐は、狸を毛皮の供給源としてではなく食肉として位置付けることによる、事態の打開を図る。
毛皮としての価値に加え、食肉としての価値を強調することにより、研究所としての存続を画策したわけだ。
そこに巻き込まれたのが、斎藤智久であった。
悪化する当時の食糧事情の中でありながら、陸軍研究所という性格上、食糧の確保は難しいものではなかった。一般の食糧事情からすれば、実に恵まれた環境にあった、はずなのだが、新たな研究課題である。
連日、所長宅に招かれての食卓に上がるのは、狸の肉なのであった。
やはり、不味かったらしい。空襲の被害に遭った、神田のホテルのコックや、向島の料亭の板前など、一流の料理人を研究所嘱託として採用していたようだが、狸の肉のハードルは高かったようである。
昭和20年4月1日の斎藤智久の言葉が、すべてを物語っているだろう。
団栗を食べる狸を食べんが為に努力せしも、
団栗は団栗として食べる方がはるかに美味なり。
読み込み中...






