爆弾(肉弾)三勇士
わたしの話すのは、今から、三百三十四年前の爆弾三勇士です。つまり、慶長三年十月のことであるが・・・。諸君は、豊臣秀吉の韓国征伐を知っちょるでしょう。これほど、大規模な大陸出兵は、明治以前に一度もなかった。・・・十三万の大軍ですからな。太閤の雄図、以って知るべしです。
この戦いは、韓国征伐となっておるが、対手(あいて)は、実は、明国です。敵軍の主力も、明軍です。昔から、戦争というものには、いつも、尻押しをする奴がある。今度の事変だって、やはり、そうだ。英米という尻押しがある。
十三万の日本軍は、忽ち、鶏林八道を席巻したのであるが、この戦いに、わが薩摩の将兵が、加わっておった。十七代の藩主義弘公が、自ら陣頭に立って、軍神と呼ばるるほどの闘いをなさった。世間では、加藤清正ばかり働いたようにいうが、ありゃア、講談師の捏造ですな。どんなに、わが島津部隊が強かったか、チャンと、敵方の文章に残ってる。若し一人の石曼子(せきまんし)なかりせば、倭寇をして一人も生還せしめざりしを・・・明人が、そう書いている。石曼子とは、島津公のことです。
義弘公は、全羅慶尚の二道を突破して、泗川というところに、陣を構えられたが、太閤はそこを前進基地として、築城を命じた。泗川新塞というのが、それです。そこを、明の二十万の大軍が、攻めてきた。義弘公の手勢は、五千です・・・四十分の一の寡勢で、これを防いだというのも、わが勇猛なる薩摩兵児なればこそです。
明軍は島津勢が手強いと見て、城の下に火薬を装填して、一挙に城を焼こうと試みたのです。これには、わが軍も、大いに参った。白兵戦なら、自信があるが、火薬の前には、剣術も役にたたない。一同は、蜂の巣のように、焼き払われるかお、歯噛みをしていると、その時に、敵陣の後方に当たって、大爆発が起こった。敵が命と頼む火薬の元庫(もとぐら)へ、どういうわけか、火が入ったのです。今度は、反対に、敵軍が、火に焼かれて、大混乱を起こした時に、義弘公は、ソレと下知をなされた。城門から繰り出した軍勢は、当たるをさいわい、敵を薙ぎ倒したので、勝敗忽ち地をかえてしまったのです・・・。
戦いは、わが軍の大勝利に終わったが、不審なのは、敵の火薬壷の爆発が、何によって起こったのか・・・。わざわざ、点火でもしない限り、容易に、爆発なぞせんです。真逆、敵が、自分で自分の火薬に、火を点けるわけもない。諸君・・・誰がやったと思いますか。
それは、狐がやったということになっている。三疋の狐が、やったということになっている。赤い狐が二疋、白い狐が一疋・・・城の中から飛び出して、敵中に駆け入ったのを、大将の義弘公が、確かに、見届けたというのである。それから、間もなく、大爆発が起こったというのである。
ところが、それは、宣伝だったのです。立派な、忠誠な、三人の若武者が、敵陣深く忍び入って、火薬壷に火を放ち、共に爆死したのです。瀬戸口、佐竹、市来という三勇士・・・中でも、瀬戸口弥七郎の如きは、まだ十九歳の若武者であった。そんな壮烈な事蹟を、なぜ狐の仕業なぞといって、宣伝したかというと、当時は、個人の勲功よりも、軍全体の利益を重んじたのですな。神明の加護われにありと、考えれば、全軍の士気百倍するわけではありませんか。義弘公としても、それが白狐と赤狐の仕業ではなくて、白糸縅の武者一騎、赤糸縅の武者二騎の働きであることを、知っておられたが、わざと、そう仰ったのでしょう。恐らく、三勇士の霊も、個人的な勇名を後世に残すよりも、軍全体の利益のもとに、犠牲となることの方が、本望だったに相違ない。当時の武士道は、実に、そのようなものだったのです。
諸君、廟行鎮(びようこうちん)の三勇士に劣らざる泗川新塞の三勇士のことを、覚えていてください。そして、昔の爆弾三勇士が、わが薩摩から出たことを、忘れんで下さい。瀬戸口弥七郎の如きは、本校の付近・・・下荒田郷中の出身だったですぞ。(以上、抜粋・引用。獅子文六小説「海軍」)
思いのほか引用が長くなったので、昭和最初の軍神・廟行鎮の三勇士については、下の動画を観てチョ。旧制中学で、英語の先生が生徒にこんな話をされたのである。小説といえども、我ら、いいお勉強になりますね。余白も少ないようだし、私のような若輩者がああだこうだと結論的に申し上げるのは遠慮したい。






