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爆弾(肉弾)三勇士

2010/02/12 21:03

わたしの話すのは、今から、三百三十四年前の爆弾三勇士です。つまり、慶長三年十月のことであるが・・・。諸君は、豊臣秀吉の韓国征伐を知っちょるでしょう。これほど、大規模な大陸出兵は、明治以前に一度もなかった。・・・十三万の大軍ですからな。太閤の雄図、以って知るべしです。

この戦いは、韓国征伐となっておるが、対手(あいて)は、実は、明国です。敵軍の主力も、明軍です。昔から、戦争というものには、いつも、尻押しをする奴がある。今度の事変だって、やはり、そうだ。英米という尻押しがある。

十三万の日本軍は、忽ち、鶏林八道を席巻したのであるが、この戦いに、わが薩摩の将兵が、加わっておった。十七代の藩主義弘公が、自ら陣頭に立って、軍神と呼ばるるほどの闘いをなさった。世間では、加藤清正ばかり働いたようにいうが、ありゃア、講談師の捏造ですな。どんなに、わが島津部隊が強かったか、チャンと、敵方の文章に残ってる。若し一人の石曼子(せきまんし)なかりせば、倭寇をして一人も生還せしめざりしを・・・明人が、そう書いている。石曼子とは、島津公のことです。

義弘公は、全羅慶尚の二道を突破して、泗川というところに、陣を構えられたが、太閤はそこを前進基地として、築城を命じた。泗川新塞というのが、それです。そこを、明の二十万の大軍が、攻めてきた。義弘公の手勢は、五千です・・・四十分の一の寡勢で、これを防いだというのも、わが勇猛なる薩摩兵児なればこそです。

明軍は島津勢が手強いと見て、城の下に火薬を装填して、一挙に城を焼こうと試みたのです。これには、わが軍も、大いに参った。白兵戦なら、自信があるが、火薬の前には、剣術も役にたたない。一同は、蜂の巣のように、焼き払われるかお、歯噛みをしていると、その時に、敵陣の後方に当たって、大爆発が起こった。敵が命と頼む火薬の元庫(もとぐら)へ、どういうわけか、火が入ったのです。今度は、反対に、敵軍が、火に焼かれて、大混乱を起こした時に、義弘公は、ソレと下知をなされた。城門から繰り出した軍勢は、当たるをさいわい、敵を薙ぎ倒したので、勝敗忽ち地をかえてしまったのです・・・。


戦いは、わが軍の大勝利に終わったが、不審なのは、敵の火薬壷の爆発が、何によって起こったのか・・・。わざわざ、点火でもしない限り、容易に、爆発なぞせんです。真逆、敵が、自分で自分の火薬に、火を点けるわけもない。諸君・・・誰がやったと思いますか。

それは、狐がやったということになっている。三疋の狐が、やったということになっている。赤い狐が二疋、白い狐が一疋・・・城の中から飛び出して、敵中に駆け入ったのを、大将の義弘公が、確かに、見届けたというのである。それから、間もなく、大爆発が起こったというのである。

ところが、それは、宣伝だったのです。立派な、忠誠な、三人の若武者が、敵陣深く忍び入って、火薬壷に火を放ち、共に爆死したのです。瀬戸口、佐竹、市来という三勇士・・・中でも、瀬戸口弥七郎の如きは、まだ十九歳の若武者であった。そんな壮烈な事蹟を、なぜ狐の仕業なぞといって、宣伝したかというと、当時は、個人の勲功よりも、軍全体の利益を重んじたのですな。神明の加護われにありと、考えれば、全軍の士気百倍するわけではありませんか。義弘公としても、それが白狐と赤狐の仕業ではなくて、白糸縅の武者一騎、赤糸縅の武者二騎の働きであることを、知っておられたが、わざと、そう仰ったのでしょう。恐らく、三勇士の霊も、個人的な勇名を後世に残すよりも、軍全体の利益のもとに、犠牲となることの方が、本望だったに相違ない。当時の武士道は、実に、そのようなものだったのです。

諸君、廟行鎮(びようこうちん)の三勇士に劣らざる泗川新塞の三勇士のことを、覚えていてください。そして、昔の爆弾三勇士が、わが薩摩から出たことを、忘れんで下さい。瀬戸口弥七郎の如きは、本校の付近・・・下荒田郷中の出身だったですぞ。(以上、抜粋・引用。獅子文六小説「海軍」)


思いのほか引用が長くなったので、昭和最初の軍神・廟行鎮の三勇士については、下の動画を観てチョ。旧制中学で、英語の先生が生徒にこんな話をされたのである。小説といえども、我ら、いいお勉強になりますね。余白も少ないようだし、私のような若輩者がああだこうだと結論的に申し上げるのは遠慮したい。


Tags: なし / 豊臣秀吉 | 日本軍 | 鶏林 | 加藤清正
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最新コメント

  • Comment : 1
    マイマイ
     2010/02/12 21:39
    初めまして今晩は、 

    それほんとでしょうかただの逃げ遅れじゃないんですか?


    昭和の爆弾三勇士は 
    ほんとうは伝達が上手く行かずの事故だったの 勇士とし捏造みたいですが、
    その話も信じて良いんですかね(-_-;)

  • Comment : 2
    うさぎ屋
     2010/02/12 22:27
    マイマイさん、こんばんは。

    返信ありがとうございます。昭和の爆弾三勇士には仰るとおり、諸説、捏造あるようですね。

    しかし、久留米の師団2000名足らずで、3万以上の敵を撃破したのは事実であり、帝国陸軍は大したものだと思います。生還を目的とした作戦で(他の三十人以上は無事任務を果たしたわけですから)、三人の工兵、一等兵は導火線の長さを間違えたともいわれています。或いは命令した者が悪かったのか。私はそれでも名誉の戦死には違いないと思います。そして戦意高揚の戦時宣伝だったにせよ、国家存亡の時には、何でもありと言えば語弊がありますが、許されるのではないかと思います。

    私はGHQ大本営発表よりも、まだ大日本帝国の大本営発表を信じる単細胞ですので、帝国軍人はよく戦った、という評価をするだけです。

  • Comment : 3
    うさぎ屋
     2010/02/12 23:13
    あ、マイマイさん、ごめんなさい、義弘公の戦いを信じてよいんですかね、と仰ってるんですね。

    私、見ていたわけではないので史実について断言はできませんが、そのように語られてきたのだと思います。私は高校時代に稲荷神社の近くに住んでいましたので、信じる・信じないの話なら、信じています。

  • Comment : 4
    ke-go
    ke-goさん
     2010/02/12 23:44
    なんだか、エイエイオー、エイエイオー、という遠い掛け声が聞こえてくるような、そんな趣のある風景ですな。
    武州忍城の水攻め失敗、これは皮肉にも秀吉配下の石井三成の軍が攻めたのですが、その水攻めを突如破ったのが忍城下の百姓だったと何かの小説で読んだことがあります。
    エキサイティングで多分にフィクションもまじえてるのだと思いますが、何はともあれ日本人にとっては浪漫をかきたてられますね。

    そうか、うさぎ屋さんは薩摩藩でしたね。幕末の薩英戦争とか、薩長の争いとか、維新前夜のこぼれ話とか、そういうの聞きたい。日記に要望って、厚かましいけど^^

  • Comment : 5
    うさぎ屋
     2010/02/13 00:37
    ke-go先生こんばんは。

    フィクションといえば、戦後の64年も虚構・虚妄であったと言う人いますね。

    私、82本書いてますが、初期の頃は歴史物シリーズでした。主に幕末、薩摩の人物像。

    尤も、歴史は想像力だ、なーんて書いている訳ですから、あまりアテにはなりません。

    奥羽越同盟も好きですョ。兄貴こそ東北の大学出てるから、あちら方面に詳しいのではありませんか?この書き方、東北大卒と誤解されやすいですね。先生の言を借りれば、「東北地方の田舎」でしたかね。大変失礼いたしました。こういう馬鹿言っていれば、お互いに癒されますですね。

  • Comment : 6
    三本足の鴉
     2010/02/13 04:30
    戦意鼓舞や戦果喧伝、軍神崇敬のために作られた歌は多いですね。英国東洋艦隊潰滅、空の神兵、加藤隼戦闘隊、他沢山。明るく闊達で溌剌たる歌詞と旋律、当時の国民は日本の勝利を信じてこれらの歌を口ずさんできたのでしょう。

    捏造とまではいかなくても史実と異なる美談や英雄譚はいくらでもあります。時には作り話や嘘を交えていたとしても、それらの美談は総力戦を戦う国民にとっての精神的支柱であったことでしょう。そして今尚、日本人の美徳を余すところなく語りつくし、明日の日本人にとっても心の糧となる秀逸な物語ばかりです。

    歴史は歴史として真実を学び知ることは大切ですが、歴史物語もまた、私達の生きる指針として大切にしていきたいです。

  • Comment : 7
    隠れ念仏
     2010/02/13 08:56
    師匠失礼します。
    私の、ひい御祖父さんの弟は、函館迄、行ったそうです。
    多分、黒田清隆に付いて行ったと思いますから、新潟経由でしょうか?
    土方歳三を見てるかも…。
    雑兵なので、とても斬り結べかなかったとは思いますが…。
    土方は近藤の下にいる時は「鬼の副長」と呼ばれ、冷徹な男と言われています。
    しかし、近藤の元を離れてからは「慈母」の様だと、部下に慕われています。
    優しくない男、が女にもてる訳ありません。
    多分、優しい彼が本当の彼でしょう。
    生きていて欲しかったな、と思います。
    そんな俺等が多摩に居るのも、何かの縁でしょうね。

  • Comment : 8
    ねずきち
     2010/02/13 10:58
    うさぎ屋さん、おひさです^^

    このお話、素晴らしいですね。

    ボクのブログで紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

    ちなみに、泗川新塞で検索すると、このページがトップにでてきます(笑)

    なので、もっともっと、ひろくつたえるべきお話と思いました^^b

  • Comment : 9
    うさぎ屋
     2010/02/13 11:43
    会長、どうも、ごぶさたしています。

    返信いただき、光栄の極みであります。引用でスペースをつぶしてしまいましたので、自分の意見はあまり述べられませんでした。それでよかったのかもしれません。ぜひとも会長の手で今に蘇らせていただきたいです。
    文中下荒田郷中とありますが、真珠湾特殊潜航艇九軍神のお一人、横山正治海軍中尉がまさしく下荒田のご出身です。(「海ゆかばの碑」の画像は日記にアップしてあります。)
    郷中教育や郷士が薩摩の藩政改革や幕末の軍事における実働部隊であったといいます。他藩も試みてもなかなかできなかったものを薩摩が可能であったのは、大量の実働部隊がいたからなのだそうです。士族の比率全国平均0.5パーセント、薩摩は26.8パーセントだったそうですから。(これは原口虎雄という学者が書いています。)
    横山中尉は我が校の先輩でありますゆえ、つい、話が薩摩になってしまいました。

  • Comment : 10
    うさぎ屋
     2010/02/13 12:26
    三本足の鴉さん、隠れ念仏さん、順不同、飛ばしてしまってごめんなさい。
    理由はご納得いただけますよね、我らの会長のご登場です。

    引用だけで終わってしまいましたが、本当は「赤い狐と緑のたぬき」の予定でした。それでもカラスさんにはいつもながら、先読みをしていただいたようで、高度な知性でもって、解説までしていただきました。同感でございます。
    人間は赤色を赤色に見えるのですが、稀に赤を緑、緑を赤に見る人がいます。色盲(漢字合ってる?)、色弱と呼ばれる人です。どちらが異状とか言えるものでも、まして病気でもない。ただ赤を赤が大多数派であるに過ぎない。赤を緑に見てどこが悪い、ということなんです。信号機の話ではなくて、人間の思考機として。でないとオリジナリティは存しない。なあーんて。

    念仏さんのご先祖様が函館まで行かれたということは、東北でも戦っておられるでしょう。手紙なんか残っていないでしょうかねえ。薩長は東北では酷いことをしたといわれますが、中には敵方にも讃えられるような薩摩の武将もいたらしいですが、混乱していて名前も分らない。
    明治になってもまだ仇討ちや報復があるものだから、表立って語られなかったんだと思います。善行をなした武士も自分からは話さない。土方等、特に賊軍については。大河ドラマで私の新撰組のイメージをブチ壊してくれました。

    訳のわからないこと言っていますが、まだまだ、先は長い。ゆっくり行きましょう。

  • Comment : 11
    隠れ念仏
     2010/02/14 09:14
    お邪魔します。
    散文的ですが。
    西南戦争では、庄内藩(山形県)からの留学生が西郷軍に加わっています。
    今は南州墓地に西郷どん始め、薩摩武士団と一緒に眠っています。
    庄内藩士の菅実秀と言う方が、「南州翁遺訓録」を編纂されています。
    鳥羽伏見の戦い前後には江戸薩摩藩邸を焼き払い、西郷どんに刺客を放った人です。

    豊後から西郷軍に加わった武士団の隊長が部下に「この戦は負けだ、だからお前達は帰れ、でも俺は隊長だから、西郷さんに会ってしまった、会っちゃったら逃れられない、仕方がないのだ、多分死ぬだろうが最後まで西郷さんに付いて行く」と仰り、この方も南州墓地で眠っていらっしゃるそうです。
    命も、地位も、名も要らぬ人は、敵にも味方にも始末に困る人です。
    でも、関わった人達が何か、爽やかなのです。
    西郷どんは、奇跡が服着て歩いてる様な人です。
    西郷どんは有名過ぎるけど、菅実秀のお話は、ねずブロのネタになるかもです。

  • Comment : 12
    うさぎ屋
     2010/02/14 11:19
    隠れ念仏さん、こんにちは。

    菅臥牛(秀実)翁の銅像が鹿児島市内に二つもあります。賊軍であった藩のご家老さまの銅像が、官軍であった他藩にあること自体をあまり知られていない。鶴岡市と鹿児島市は兄弟都市の盟約を結んで40年。
    西南の役の戦死者を手厚く埋葬した当時の県令も、土佐の出身でした。
    日本人は素晴らしいですね。

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