メタボリズムは
1959年に
黒川紀章や
菊竹清訓ら
日本の若手
建築家・
都市計画家グループが開始した建築運動。
新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。日本における「現代建築」の端緒であると見られている。
概要
Wikipedia画像へのリンク(
中銀カプセルタワービル、
黒川紀章)
彼らの構想した将来の都市は
高度経済成長という当時の日本の人口増加圧力と都市の急速な更新、膨張に応えるもので、スケールの大きく、有機的な成長を可能にする柔軟で拡張性の高い構造が特徴であった。彼らは従来の固定した形態や機能を支える「機械の原理」はもはや有効的でないと考え、空間や機能が変化する「生命の原理」が将来の社会や文化を支えると信じた
[ポンピドーセンター]。黒川紀章や菊竹清訓らの都市・建築計画では、無数の生活用ユニットが高い塔や海上シリンダーなどの巨大構造物に差し込まれており、古い細胞が新しい細胞に入れ替わるように、古くなったり機能が合わなくなったりした部屋などのユニットをまるごと新しいユニットと取り替えることで、社会の成長や変化に対応しこれを促進することが構想された。
都市規模の巨大構造体(メガストラクチャー)を志向しがちなメタボリズム・グループの作品はしばしば技術官僚的と評され、前衛的なデザインも日常への応用とは離れた修辞的なものであった。これらは
アーキグラムによる実現しなかった建築デザイン(ウォーキング・シティやプラグイン・シティなど)とよく比較されている。
メタボリズム・グループの起源は
1950年代の終わりごろにある。
モダニズム建築を主導してきた
CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne・シアム・近代建築国際会議)が
1956年を最後に開かれなくなり
1959年に終焉したころ、CIAMの若手メンバーらによる新しいグループ・
Team X(チーム・テン)が台頭し世界の若い建築家らに影響を与えた。日本の若手建築家達も彼らと交流し、その影響を受けた。
1960年に日本で世界デザイン会議(World Design Conference)が開かれる予定になっていたが、この会議のプランニングに関わった建築家達(
浅田孝、
菊竹清訓、
黒川紀章、
大高正人、
栄久庵憲司、
粟津潔、
槇文彦)と建築評論家の
川添登は建築の将来について話し合いグループを結成した。世界デザイン会議において、彼らは最初の宣言である『METABOLISM/1960 - 都市への提案』を発表し、「海上都市」「塔状都市」「新宿ターミナル再開発計画」など成長し新陳代謝する巨大都市のアイデアを披露した。彼らのアイデアは将来の社会を具体的に提案しようとしたもので、建築のみならず哲学など広く近代文明にも言及するものだった。
これら巨大都市計画は実現しなかったが、個々のメンバーは建築にその思想を適用させていった。黒川紀章の
中銀カプセルタワービル(1972年)はその一例である。未来志向的な黒川・菊竹らとは別に、建築を集積させて都市を形成しようとする槇や大高らの構想は穏健なものであった。
1970年の
大阪万博では彼らは会場計画・建築計画に共同で携わったが、この万博がメタボリズムや日本の高度成長の到達点であり終点であった(
エキスポタワーなど)。大阪万博を最後に彼らの活動は分岐してゆき、
磯崎新や
篠原一男ら次の世代が台頭する。
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