Wikipedia画像へのリンク(吉兆(本吉兆)大丸梅田店)
吉兆(きっちょう)とは
大阪市に本拠がある
日本料理の高級
料亭である。なお、「吉兆」の屋号で店舗を運営する4社と関連法人を纏めて
吉兆グループと称する。
概要
創業
創業者・
湯木貞一は神戸の料理屋「中現長」の息子であったが家を出て、
1930年11月21日、大阪市
西区新町にて「御鯛茶處吉兆」を開業した。「吉兆」とは、
西宮戎神社や
今宮戎神社などで毎年1月10日を挟んで前後3日間に行われる十日戎(とおかえびす)に授与される福笹につける子宝のことで、また福笹自体も吉兆笹と呼ばれており、店名はそれに由来する。湯木貞一と縁故のあった画家
須磨対水により縁起を担いで付けられた。当初は「
きっきょう」という
ルビがふられていたが、お客が「きっちょう」と読んだために「きっちょう」となった。
間口一間二分五厘、奥行き六間の狭いごく小さな店舗ながら、料理の良さはもちろん、店のしつらえも食器の類も洒落た小料理店であった。開店日には一人も客が入らなかったという逸話もあり
[吉兆ものがたり(東京吉兆)]、そこから現在の吉兆を築いた背景には湯木の才能があったと言われる。
やがて船場の旦那衆、
上村松園や
白井半七、
高畑誠一、美術商児嶋嘉助らひいきの客もついて繁盛し、店が手狭になってきて、1937年11月に旧南区島之内の畳屋町の新店舗(間口三間、奥行き三十間)に移転。
1939年12月には株式会社化している。戦時中も吉兆は大阪府知事河原田稼吉の計らいで特別に営業を続けられたが、大阪大空襲で畳屋町の店舗が道具類もろとも全焼してしまう。被災後は芦屋の自宅で「芦屋吉兆」を開店。
多店舗展開・グループ化
戦後の1946年2月3日に大阪平野町店を開店。1948年2月、京都嵯峨店を開店(児嶋嘉助の元別邸)。翌
1949年4月に児島嘉助の店舗兼本邸を購入して現在の
高麗橋店(
大阪市)を開く。関西の茶人・財界人の引き立てを受けて名声を高め、来阪する内外の要人をもてなすのに欠かせない高級料亭となる。貞一には茶懐石に関する著述が多いが、
1969年には『
暮しの手帖』に
花森安治のインタビューによる「吉兆つれづればなし」の連載が始まり
[湯木貞一『吉兆味ばなし 三』p.329 大橋鎭子あとがき][1969年9月 - 1988年4月連載(『吉兆 湯木貞一のゆめ』)]、吉兆の名前が一般にも浸透する契機となる。
1979年・
1986年・
1993年の
東京サミットで他の有名料亭をさしおいて日本料理担当に選ばれたことで、世界的に知られる存在となった。1988年には創業者の茶道具コレクションをおさめた「
湯木美術館」を設立。
京都、大阪、東京、神戸などで多店舗展開をすすめ、
1991年、創業者の貞一の息子や料理人である娘婿たちを
暖簾分けの形で独立させて、
吉兆グループとしてグループ会社制に移行。長男湯木敏夫が本吉兆、長女の婿湯木昭二朗が東京吉兆、次女の婿徳岡孝二が京都吉兆、三女の婿湯木正徳が船場吉兆、四女の婿湯木喜和が神戸吉兆を継承した
[『イグザミナ』2008年1月号]。
1997年 創業者の湯木貞一逝去。
「吉兆」の特徴
日本料理には
宮廷料理の系統である
有職料理、
大名の宴会料理である
本膳料理、
江戸時代に
町人の
宴会料理として確立した
会席料理などがある。吉兆の料理は、献立や、建具や調度品などを
一期一会その場の雰囲気や季節に応じて変える「室礼(しつらい)」に至るまで、
茶懐石の影響を強く受けている。これは創始者の湯木貞一が
茶道に造詣が深かったことに理由があり、貞一は後に自らの茶道具コレクションを基に
湯木美術館を設立した。
また、高級料亭としては珍しく
多店舗展開している。特に東京吉兆の「銀座店」や「ホテル西洋銀座店」、大阪の本吉兆
高麗橋店、京都吉兆
嵐山店などは、政財界有力者や外国
要人の接待で利用されることが多い。東京吉兆「ホテル西洋銀座店」は
小泉純一郎が首相在任中に度々利用したことでも知られている。
船場吉兆の廃業
「吉兆」グループの一角であった
船場吉兆では2007年、
消費期限・
賞味期限偽装に端を発する一連の不祥事が発覚した。翌2008年5月には、客が食べ残した料理を別の客に使い回していたことが判明、報道により知れ渡った
[当時の船場吉兆・湯木佐知子社長は「食べ残し」と呼ばず「手付かず」と呼ぶようにマスコミに要望している。]ことが追い討ちとなり、船場吉兆は廃業に追い込まれた。この事件は、「吉兆」全体のブランドイメージを損ね、本吉兆では前年度に比べ客が半減するなど、グループ他社にも深刻な影響を与えた。
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