中田 翔(なかた しょう、
1989年4月22日 - )は、
北海道日本ハムファイターズに所属する
プロ野球選手(
内野手)。愛称は
翔さん。
高校通算本塁打87本は史上最多(年現在)。
甲子園でも歴代7位となる4
本塁打を放った。
来歴
プロ入り前
広島鯉城シニア時代は連盟記録となる通算51
本塁打。シニア全日本選抜ではアメリカ遠征で4本塁打を放ち、
投手としても141km/hを記録した。
大阪桐蔭高校に進学すると、1年夏には五番・
一塁手でレギュラーとなり、投手としても最速147km/hを記録。秋からはエースで四番を任され、翌春には151km/hまで球速が伸びた。2年時は肩の故障で投手としては活躍が出来なかったものの、打者として大阪大会新記録となる4試合連続本塁打、甲子園では推定飛距離140メートル弾、さらに秋季近畿大会では
紀三井寺野球場で推定飛距離170メートルの本塁打を放つ。このころから「
平成の怪物」と呼ばれるようになる。
3年生時()の
7月6日、
全国高校野球大阪大会直前の練習試合・
生野工業高校戦にて高校通算本塁打の新記録となる87本目の本塁打を記録。大阪大会の決勝ではエースの
植松優友(のちロッテ)を擁する
金光大阪高校と対戦し、投手としては初回に3失点、打撃でも5打数無安打とふるわず、チームも敗戦し甲子園出場を逃した。
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同年夏、テレビ朝日系列で放送された『速報!!甲子園への道』が中田を追跡取材しており、その詳細が「イッツ・翔タイム」と題された企画コーナーで放送されていた。試合では見られない中田の個性を映し出しており好評であったが、上述の通り大阪桐蔭高校が甲子園出場を逃したため、同コーナーも甲子園本番を待たず打ち切りとなってしまった。大阪府代表として出場した金光大阪高校はその後甲子園の一回戦で敗退したが、その際エースの植松は「中田に謝りたいです」と番組で話していた。
同年
10月3日の
プロ野球ドラフト会議(高校生対象)において、
北海道日本ハムファイターズを含む4球団
[他は阪神タイガース、オリックス・バファローズ、福岡ソフトバンクホークス。]に1巡目で指名され、交渉権を獲得した日本ハムに入団。同年
11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で契約。
背番号は同年オフに現役から引退した
田中幸雄の
6を引き継いだ。
プロ入り後
中学2年生まで
捕手の経験もあり、仮契約の際、山田正雄
GMが中田に捕手挑戦プランを提案したが、
梨田昌孝監督が後日否定。また、年明けに同監督が投手としても起用する
二刀流プランも披露したが、こちらも後日否定した。だが、気分転換を狙った同監督のアイディアにより、春季キャンプ中にブルペン入りして投球。最速142km/hをマークした
[日本ハム中田が電撃ブルペン!142キロ! (日刊スポーツ 2008年2月16日)]。
高校時代は
投手兼
外野手だったが、入団後は
三塁手を志願(球団の育成方針とも一致)。新人年となる2008年はオープン戦から木製バットへの対応に苦しみ、開幕は二軍スタート。6月に左手首を骨折。打撃フォームも固まらず、二軍で本塁打11を記録するも打率.255に終わり、一度も一軍に昇格することはなかった。この11本塁打はこの年の新人選手の中でトップの数字。
3月18日、2年越しで取り組んできた三塁手の失格を言い渡され、
一塁手に専念することになった。
5月20日、二軍ではチームの全39試合に出場して打率.299、本塁打12、打点44の好成績が評価、両膝痛の
ターメル・スレッジの登録抹消により、初の一軍昇格。
5月23日のヤクルト戦(
札幌ドーム)にて7番指名打者でプロ初出場し、プロ初打席初安打と初得点を記録。
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