| 件名: | お盆にお坊さんと世間話をして考察してみた |
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| MLNo. | [ept:13645] |
| 差出人: | 平ぼんだろうさん |
| 送信日時: | 2007/08/16 07:54 |
| 本文: |
みなさま こんにちは 平ぼんだろう です
お盆参りで、お寺に行って、「南無阿弥陀仏」を唱えてきました。 お坊さんが、お寺の固定資産税の課税がやがて行なわれるので はないか、といった政治の話から、「共産党」を支持する坊さんも いると聞いて、ビックリしました。 また、金を持っているお坊さんは、何百万円もする数珠をもってい る、という話を聞いて、権力と金で造られている世界は、虚飾であっ て、それに捉われた価値観は、宗教的センス(心の在り様・あるべ き姿)からは、大きくへだたったものではないか、と思いました。 また、「日本で、昔からあったのが、神道で、仏教は輸入されたもの で、国家権力と繋がらなければ、こんなに大きくならなかった。」と言 ってました(大きな寺院は日本各地にたくさんあります。)。今日では 「宗教と政治」の問題ですが、その点では、お坊さんは、「政教分離」 を支持する、といっておりました。 私の立場を整理すると、次のようになります。 宗教(唯心論)=心の問題=一元論=独我論=精神統合 この立場で、「社会」を考えた場合、人間は、精神統合(「コントロール」) された環境では、「快・不快」では「快」を、「幸・不幸」では「幸」を選択す る傾向を強く持つ動物だから、多くの「快」や「幸」の事象(その基準を含 め)を個々の人びとに、数多くインプットしておく(「不幸」な選択をしないよ うな手立てをしておく)ことが、共有する「社会」の安定には、必要必須な ことなのだ、と思います。 現実社会では、「政治」が立法で、その役割を担っておりますが、日常で は、「モラル」という形で世間的・慣習的な人間の行為への評価(「卑劣」 「卑怯」とか・・・)が、常に行なわれている、と思います。「挨拶を交わす」 「存在を認める」「目配りする」などの具体的な人間同士の行為も、そうし た宗教観からすれば、現実社会つくる上での大きな一歩(歩み)なのだ、 と思います。 どうぞよろしくおねがいいたします。 |
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