| 件名: | Re:ぼんだろうさんの外部 |
|---|---|
| MLNo. | [ept:14751] |
| 差出人: | 平ぼんだろうさん |
| 送信日時: | 2007/09/23 07:07 |
| 本文: |
やまけんさん みなさま こんにちは 平ぼんだろう です
【14608】へのレス 【14616】に続いて、今回も岩波哲学思想事典からの抜粋引用 の投稿だけさせていただきます(ご参考までに)。 > 皆さん、こんにちは > > この前の続きです。この前の一部をもう一度読んでください。 > > > ところで、この外部意識ですが、上記のような問題にすると、 確かに外部は在るかどうかは信じられていないので、「外部という意 識はない」というぼんだろうさんのいうことは一応分かるように思い ます。この「ない」は断定としての「ない」なのではなく、「外部が 在るという断定意識」がないということでしょう。結局、在るとも 無いとも言わないところでの意識の現象の分析的対応のあり方が彼 ら現象学者や独我論者の姿勢だろうと思います。 > > では、外部意識は、どこからかというと実生活の行動の中から です。だから、上記の学者達の分析的眼差しを無視して考えると、一 般人にとって外部は明らかに在るものとして考えているということに なります。その在る事を信じておりあることを確認しているので実生 活で行動できているのです。 > > ところで、実生活で外部世界や存在が在るという思いは単なる 信憑ではないでしょう。実際の生活というのは、外部世界や外部存 在が在るかないかの確認の連続で成り立っているからです。その意 識を一たび分析の対象とすると、「在るのか無いのか」を不問にしな ければならなくなる。これはどういうことだろうか?ここでは、も はや一般人の外部意識は一変している。単なる知的な対象としての 外部意識にとどまるものとなっているのである。何が変わったのか、 それは信憑性である。「在るかどうか」を疑う立場となる。一般人は その在るに信頼をおいている。何故なら、外部存在はその存在を感 覚や知覚によって行動的に確認するからである。この確認は知的な確 認より基本的な確認である。この確認があってこそ知的な確認が行わ れるというような確認なのである。そういう確認の末に「外部意識」が 生じたのである。 > > その外部意識を現象学的アプローチだと改めて問い直すこと になり、「在るかないか」を不問とすることになる。つまり、在る と確認された世界を強いて問題対象から引剥がすことになるのであ る。それも分析する手立てとして行う条件であろうが、何故「在る」 という意識を不問とするかは、その在るという意識に至るまでの人 間の認識の過程を分析するためであると言うのだ。 > > だとすると、外部世界や存在は、不問に付する必要を感じない ではなかろうか? > > 何故なら、認識の過程を分析するのなら、一般人が「外部に世界 や存在が在る」という意識、その信憑性そのものに至る過程を分析す る限り、その分析の行き着くところも一般人の外部意識のあり方と同 じでなければならないからである。もし少しでも違っているなら、そ の意識の分析は失敗していることになるからである。 > > そこで現象学者や独我論者はなんといっているかと言うと、ぼん だろうさんのいうように「外部は在るとはされていない」なのである。 さて、これはどういうことであろうか。 > > 分析学者においても結論は一般人と同じでなければならないであろ う。にもかわらず、異なっていそうである。 > > > 上記のことより、一般人の外部意識と現象学者や独我論者の いう外部意識とは明らかに異なっていることが分かる。前者は「外 部は存在する」であり、後者は「外部は在るとはいえない」だからだ。 > ところで、後者が「外部は在るとはいえない」といわざる終え ないのは、始めの分析の条件として、自らで現象学的還元を行い、「外 部世界の存在の如何」を不問に付する。括弧くくりにするという作業 を行ったからである。だから分析の結果でも「外部は存在する」とは いえないのは当然なのである。 > では、何故括弧くくりにする必要があったのだろうか? > 一般人の外部意識を分析するのには、単にその意識にいたるま での分析をすればよかったはずなのに、わざわざどうして一切の在 るという断定を中止して現象学的還元を行うことで外部意識につい て分析するというようなことをしたのだろうか。それによって起き た外部意識とは、どういうものであろうか?一般人の言う外部意識、 「外部世界やその中の存在は在る」という意識は、現象学的還元を食 らった外部意識、「外部世界やその中の存在というものは在るとはい えない」となって結論付けられるとすれば、外部意識自体がもはや 彼ら現象学者には無いのである。彼らにある外部とは「在る」では なく、「在ると信じられている」というものであろう。この「信じら れている」「信憑性」は、「在る」という断定とは異なる。意識そのも のの分析の結果に出てきた言葉である。 > 何故なら、前提として外部は存在するとも存在しないとも断定し ないという約束があるからである。そして、この約束を設けること 自体が不可思議なのである。 > 何故と、先にも述べたように、自己の意識内容を分析したり、一 般人の外部意識を分析するならば、一般人のいう「外部世界やその 中の存在は在る」という意識に至るはずなのであり、至らないとい うことはどこかにその分析上の不手際があるといことになるからで あった。 > ではその不手際とは何か。それこそ、文字通りのその「判断中 止」「現象学的還元」という作業に他ならないということは明らか であろう。我々が、「外部世界は在る」という意識をもつに至る理由 を、そのために歪めてしまって「それは外部世界が在ると信じている だけ」ということに変わってしまっているからである。では、実際に 全人類が「外部世界は在る」という信憑性を持っている事実が、単な る「そう信じているに過ぎない」という見方に変わったからといって、 それでは、一般人が「外部世界は在る」と信じているのは、まったく 錯覚なのか、幻想に過ぎないのかと問いただすとすれば、現象学者は、 「どちらともいえません」と言うのが関の山なのである。 > 彼らのいう外部意識とは、「外部は在ると信じられている」と言 う信憑性だけなのである。それ以上のことは断定してはだめだってい うのである。 > では、単に「在ると信じられている外部世界」というこれも一種 の判断ですが、こういう判断で、実生活の行動を行うなう場合、どう なるでしょうか?事物に対して一端行動を始めるとき、つまり事物に 働きかけるとき、「在るとも無いともいえない外部世界の事物」への働 きかけを行うことが出来るでしょうか?一つでもそういう働きかけを した場合、例えば散歩しようとして、足を一歩押し進めた場合、その 押し進めた足の下の地盤や床は、在るのか無いのか分からないもので あり、信頼のおけないものなわけですね。だとすると、その現象学者 はそれでも散歩するわけです。しかも、平気でするはずです。デカル トだってよく町を散歩したらしい。 > では、そういう彼らは地面や床を在るのか無いのか分からない ものと判断して散歩したのでしょうか。そうではなく「地面や床は 在る」と信じて歩いたはずです。 > もし無いものだったら、地中に転落するでしょうからね。彼らが 平気で歩いたということは、長年の経験からその地面や床が「在る」 「地面や床の下に転落しない」と知っているからに他なりません。 言い換えれば、在ると判断したからなのです。 > つまり、歩けたということは、そのような信頼の元にその信頼は あたっていることを表します。これは単なる信憑ではありません。 事実確認です。事実確認の経験から来る信頼です。 > 第一、現象学者の「外部世界やその中の存在の在る無しは問わ ないでおく」という前提付けは、それこそその前提付けの前提には、 実生活での外部世界の存在を事実確認としてずっと信じていたから に他なりません。 > だから彼らは、自分たちの現象学的還元を単に知的探求の一方法 論として作り出したに過ぎず、そうすれば、見えなかったことが見え てくると信じているからに他ならないのです。よって、実生活で外部 世界は在るか無いか分からないのだと思っているのではありません。仮 にそのように括弧に括っただけです。だから、彼らのいう「外部世界 はあるのか無いのか断定できない」という言い方も仮の判断という ことになると思います。かれらは現象学者の仮面をかぶって、「外部 世界は在るのか無いのか断定できない」というだけなのです。 岩波哲学思想事典から抜粋引用。 与件の神話(浜野研三) 理論を介さないという意味で直接的に認識者に与えられ、しか もその真理性が明白であるような知識の存在を認める考え一般。 <所与の神話>とも訳される。 与件として与えられるものの例には、感覚内容・物的対象・普 遍的事物・第一原理・命題などがある。 直接的な経験に基づく知識が主張されるとき、その経験という 出来事は、理由や正当化という規範的要素をその核心にもつ論 理的空間の内に置かれているのである。 例えば、「このものは赤い」と言うとき、われわれは「赤」とい う概念を用いており、その概念の使用が正しい、すなわち、認 識論上の規範に合致したものであるとの主張をなしている。 概念はそれを含んだ理論体系の中で初めて意味を持ちうるので あり、この個別の判断の是非も最終的には当の理論体系の妥当 性に依存している。 このように、知識を単なる経験的事実から区別するものである、 知識の規範性と、知識の正当化が持つ全体論(ホーリズム)的性 格を指摘することによって、セラーズは与件の神話を批判したの である。 抜粋引用おわり。 どうぞよろしくお願いいたします。 |
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